003 調査報告書 02

文字数 1,816文字

 俺は腹の底から熱い怒りが込み上げてくるのを感じた。拳を固く握りしめる。爪が手のひらに喰い込み、指の関節が血の気を失って白くなる。

 だが、俺の目の前には探偵屋がいた。取り乱してはならない。気取られてはならない。俺の進むべき道は、まだまだ遠く険しいのだ。こんなところで計画に破綻(はたん)をきたすわけにはいかない。平常心だ。俺は冷静を装った。さいわい、鈍感な探偵屋は、俺の内面の感情の起伏には何も気づかない。

「その権田という社長ですがね、評判はよくありませんよ。いや、経営者としての能力はあるんですよ。なんといっても、この不況下で会社を切り盛りしているんですからね。ただ、極端な合理主義者というか功利的というか、人間味に欠けるんですね。勤続数十年、会社のために汗水たらして働いた人間も、もはや必要ないと判断すると平気で切り捨てる。切り捨てられた人間のその後の身の振りかたなど、顧みもしない。そんな情け容赦のないやり口が、社の内外から反感を買っているようです」

 探偵屋の言葉は、俺が事前に得た情報を裏付けるものだった。新たな憤怒が湧きあがってくるのを俺は必死で抑えつけ、調査報告書の先に進む。

 今度は、その権田総一郎の個人データーだった。自宅、所有不動産の正確な住所に外観写真が添えられている。

「自宅は、東京・世田谷の高級住宅街に建つマンション〈ウインベル・ガーデン世田谷〉です。3階建て・全18戸なんですが、権田が住んでいるのは三階の南向き、つまり一番いい位置です。5LDKで、購買価格は税込みで2億5000万円。2億5000万円ですよ! もちろんエントランス・ホールには24時間体制で守衛が在駐していて、部外者は無断で入れません。24時間有人管理というやつです。普通、マンションの管理人なんていうのは会社を定年退職した非力な老人がやっているんですが、ここの守衛は警備会社から派遣された本職ガードマンです。柔道三段、空手五段とか、そういう体育会系の若い連中ばかりです。

 エントランスからロビーに入るには、IDナンバーと指紋識別で操作するキーレス・ダブルオートロック・システムが採用されています。エントランス、エレベーター・ホール、駐車場、廊下の要所などは、防犯カメラで常に監視されています。全窓ガラスは、ガラスアラーム付き。ガラスが割れるときに発する特有の超音波を探知すると、警報音が鳴り響く仕組みです。外部からの侵入者は、完全にシャット・アウトということです」

 これではまるで要塞だ。侵入するのは、まず無理か。別の手を考えなければならない。

「中に入って権田の居住区ですが、玄関は総大理石造り。マスター・ベッドルームは16畳で、キングサイズのダブルベッドが二つ置ける広さです。家族用のバス・洗面とは別に、マスター・ベッドルーム専用のバス・洗面もあって、しかもジャグジー付き。ご存じですか、ジャグジー? バスタブに付いている噴流式の気泡装置ですよ。よくホテルのバスなんかにあるやつです。それが自宅に付いているんですからね。洗面所の蛇口はドイツの一流デザイナーに設計を依頼したもので、それだけで80万円。リビング・ダイニングは温水式床暖房システム。ゴミは自分で捨てにいく必要はなく、ゴミ・コールをすれば清掃員が取りにくる。そのための管理費と修繕積立金が、月7万円。

 7万円あれば、普通のアパートが借りられますよ。私なんか、駐車場込みで家賃8万4000円の3DKのアパートで、妻子を養っているんですからね。ゴミだって、女房にうるさく言われながら、毎朝、私が捨てにいく。もちろん風呂にジャグジーなんかありませんよ。私の目から見れば、権田の暮らしぶりは別世界です。同じ日本で、こんなことが許されていいんですかね」

 探偵屋は、羨望とあきらめの入り混った吐息をついた。まったく、そのとおりだ。俺は初めてこの探偵屋に同感を覚えた。

「そのうえですね、権田は自宅のほかに六本木にマンションを借りています。〈リジェ六本木〉という15階建ての最上階。東京タワーがよく見える場所です。こちらは家賃が70万円。これだけで並のサラリーマンの月給以上ですよ。もちろんエントランス・ホールには守衛が控えていて、24時間有人管理。セキュリティーは世田谷の自宅同様、万全です」

「自宅でさんざん贅沢(ぜいたく)していながら、そのうえ70万も払って、六本木にマンションですか。いったい何のために?」
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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