034 男の名はシン
文字数 2,154文字
肉親惨殺の容疑者である俺が善良な市民とは、これ以上の皮肉があるだろうか。
「そうか。それは助かる。ありがとう。じゃあ、行こうか」
刑事の表情がゆるんだ。刑事はドラッグ売人を小突くと、「行け」と命令した。一瞬、俺に背中を向ける。
俺はその機会を逃さなかった。すばやく右手をポケットにいれ、スタンガンのグリップをにぎる。セイフティをONにしながら引き抜く。電極を刑事の背中に押し当て、トリガーを引く。青白い火花が散った。刑事は急に力が抜けたように体のコントロールを失い、その場にへたり込んだ。
ドラッグ売人が振り返った。俺はすばやくスタンガンをポケットにしまう。見られたか? ドラッグ売人のほうからは、刑事の体が邪魔になって、よく見えなかったはずだが。まあいい。構っているヒマはない。手錠をつけたままのドラッグ売人をその場に残し、俺は足早に去った。セントラルロードの喧騒をめざす。一刻も早く、人込みにまぎれることだ。
後ろから呼び声がした。駆足で俺を追ってくる者がいる。しまった。誰かほかに見ていた者がいたのか?
振り返ると、ドラッグ売人本人だった。手錠がなくなっている。ドラッグ売人は俺に追いつくと、気やすく肩を叩いた。
「見直したぜ、あんた。俺を助けてくれたんだな」
「いや、そういうわけじゃ……」
おまえのせいでトラブルに巻き込まれたのだ。誰が助けたりするものか。結果的にそうなっただけだ。
「手錠はどうしたんですか?」
「刑事のスーツのポケットに鍵が入ってた。そいつで外した」
「どうして俺についてくるんですか?」
「礼が言いたかったのさ。それにしても、あんた、どうやって、あの刑事を気絶させたんだ?」
やはり刑事の体が邪魔になって、ドラッグ売人には俺の手元がよく見えなかったのだ。スタンガンのスパーク音は、セントラルロードから聞こえてくる喧騒にかき消されて、耳に入らなかったのだろう。彼がスタンガンに気づかなかったのなら、それに越したことはない。大久保一丁目交番での、スタンガンを使用した拳銃強奪事件と関連づけて考えられては厄介だ。もっとも、この男にそれだけの頭があれば、の話だが。ここは、適当に話を合わせておこう。
「中国拳法の技を使ったんです。相手の首筋に手刀を打ちおろして、気絶させる技があるんです。
俺はでたらめを言ってごまかした。体力には自信があるが、中国拳法の
「中国拳法で気絶させたのか。そういや、コミックでそんな技を見たことがあるな。実際にもあるんだ……。あんた、俺の命の恩人だよ。恩返しがしたい。俺にできることがあるなら、なんでも言ってくれ」
それならば一刻も早く、俺の目の前から消えてくれ。だいたい、その芸人のような派手な格好はいったい何なんだ? ジェルで固めた金髪に、けばけばしい深紅色の革ジャケット。ルーレットのような腕時計。恥ずかしくないのか? しかも、おまえは今「命の恩人」と言ったが、そもそも俺はお前の命まで助けた覚えはないぞ。大げさな奴め。
ドラッグ売人は、いっこうに立ち去る様子がない。俺と歩調を合わせて、ついて来る。
「あんた、もしかして今日、泊まるところがないんじゃないの?」
「どうしてですか?」
俺は足を止めて、ドラッグ売人の顔を見た。
「いや、なんとなく。勘だよ。あんな暗い路地に一人で座ってたから。寂しそうに見えたよ。よかったら今夜は俺のアパートに泊めてあげるよ。汚いところだけど。刑事にあんなことして、このまま街をうろうろしていたらまずいだろ」
俺は思案した。たしかに新宿では事件を起こしすぎた。交番を襲撃して拳銃を奪い、そして今、新宿署の刑事をスタンガンで気絶させた。このまま街にとどまるのは危険だ。今夜の潜伏先を確保しなければならない。この男は不快だが、背に腹は代えられない。この男のアパートに泊めてもらうか。崇高な使命を成し遂げるためには、多少の不快は忍ばなければならない。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせてもらいます。じつは泊まるところがないんです」
「お言葉に甘えてなんて、水臭いこと言うなよ。あんたは俺の恩人なんだからな。自分の家だと思って、くつろいでいってくれ。でも、なんで泊まるところがないの?」
「え、いや……ちょっと、親と喧嘩して家出したんです」
「よくある話だよ。歌舞伎町には、そういう連中がよく来てるよ。まあ、俺に任せてくれな」
ドラッグ売人は笑いながら俺の肩を叩いた。
「俺はシンっていうんだ。22歳」
「俺は亜樹……アキラ。20歳」
俺は名と年齢を偽った。非公開捜査とはいえ、肉親殺しで追われる身なのだ。念には念を入れたほうがいい。
俺は靖国通りから、そのシンというドラッグ売人と共にタクシーに乗りこんだ。大切なリュックを胸にかかえて、後部シートにシンと並んで座る。新宿区下落合にあるという彼のアパートを目指す。スタンガンで気絶させた新宿署の刑事が目を覚ますと厄介なことになる。その前に歌舞伎町を離れることだ。