061 学校では教えてくれない授業

文字数 1,948文字

 俺の自宅は、私鉄で新宿から30分あまりの東京郊外にあった。もともとは田園地帯だった地域を、経済成長と地価の高騰にともない、しだいに住宅が浸蝕していったという典型的なベッドタウンだ。

 中学一年の夏、新宿まで所用で出かけた帰り、俺は通学定期を悪用して、新宿から最低運賃分の切符しか買わず、キセルして家まで戻ってきた。その切符が父親に見つかり、キセルが露見した。父はじっと俺のことを見つめているだけで、その日は何も言わなかった。

 翌朝、俺は6時に父に叩きおこされた。朝からよく晴れていて、猛暑を予感させる一日の始まりだった。

 父は、朝飯を食って、動きやすい格好をして、出かける準備をしろと言う。とくに靴は履き慣れたものにしろ、水筒も忘れるな、帽子もかぶれと言う。

 俺は何のことか分からなかった。その日は平日だったので学校はどうするのだと訊くと、学校も大切だが、今日は学校では教えてくれないもっと重要なことを勉強しにいく、だから学校は休んでいい、自分も会社は石塚鉄兵(いしづかてっぺい)さんに任せて休むと言う。

 父が会社を起して以来、鉄兵さんはずっと一緒だった。父の鉄兵さんに対する信頼は一度も揺らいだことはない。自分が一日くらい出社しなくても、鉄兵さんが万事都合よく手配してくれると、下駄を預けきっている。

 何のことか分からないまま父について家を出ると、そのまま私鉄に乗って新宿までやってきた。ラッシュ前の早い時間だったので、それほど混んではいなかった。父は俺を連れて駅を出た。どうするのかと思っていると、そのまま、いま電車で乗ってきた方角へ、つまり家のある西の方角へむかって歩きはじめた。俺にも遅れずについて来いと言う。

 その私鉄の路線には、国道20号が平行して走っていた。東京から甲府を経由して塩尻までをつないでいるこの国道は、別名・甲州街道と呼ばれている。新宿付近では片側三車線の規模をもち、東京の都市交通の動脈として重要な役割を果たしている。

 ビルの谷間を多数の車が煤煙(ばいえん)を撒きちらし、地響きをたてて往来していた。出勤しはじめたサラリーマンの群がハンカチで額を拭き拭き、通りにそった商業ビルに次々と吸い込まれていく。その国道20号を、父はずんずん歩いていく。俺はあわてて背中を追った。どうするのかと訊くと、このまま歩いて家まで帰ると言う。

 俺は絶句した。新宿から自宅までは30キロ近い道のりである。それを歩いて帰るというのか。列車できた道を、わざわざ歩いて帰る。なんでそんな無意味なことをするのだ。キセルをした罰にしては、念が入りすぎていないか。学校まで休んで。しかも季節は夏の炎天下である。車の往来も激しい。父は何を考えているのか。

 俺が文句を言うと、「だまれ!」と父は一喝した。腹の底に響く大声で、有無を言わさぬ迫力があった。完全に気を飲まれた俺は、黙ってとぼとぼ父の後を歩いていくしかなかった。

 埃っぽい、乾いた道をひたすら歩く。歩くにしたがって太陽は高度を上げ、夏の陽射しが強烈になっていく。陽射しを遮るものは何もない。ただ道の両側にビルが連なっているだけだ。窓ガラスが陽光を無慈悲に反射して、照りかえしがきつい。肌がじりじりと(あぶ)られ、アスファルトからは陽炎がたち昇る。

 俺はときどき立ち止まっては、水筒の水を喇叭(らっぱ)飲みした。父が帽子をかぶれ、水筒も忘れるなと言った理由を、このとき俺は理解した。

 林立するビルの隙間から右手に東京都庁ビルが見える。バブルの遺産ともいえる不必要に凝ったデザインだ。あんな不規則な多面体ではクリーニングなどに無用な手間がかかり、メインテナンス費用が(ふく)れあがる。そしてそれはすべて都民の血税によって(まかな)われるのだ。お偉がたは、そこまで考えて建設したのか?

 NTT東日本ビルと東京オペラシティを通りすぎると、西新宿を特徴づける高層ビル群は姿を消し、中小規模の雑居ビルが軒をつらねはじめる。テナントも、居酒屋、焼肉屋、ビデオ店、写真屋、工具店など、間口のせまい庶民的な店に変わる。

 最初の1~2時間は俺もまだ元気だった。だが真夏の太陽に直射されて、体力の消耗が著しい。しだいに足が重くなっていく。大腿二頭筋や半腱様筋(はんけんようきん)腓腹筋(ひふくきん)、アキレス腱、ようするに下半身のあらゆる筋肉が硬直して鉛のように重くなっていく。靴は足によくなじんだものを選んだはずだが、それでも靴ずれや肉刺(まめ)がいくつかできた。足をおろすたびに傷ついた皮膚が摩擦して痛い。疲労で感覚が麻痺しているから鈍い痛みだ。

 俺はだらだら汗を流しながら、歩きつづけた。衣服はトップもボトムも水をかぶったようにびしょ濡れになった。体がだるく、思考力もしだいに稀薄になっていく。道の両側のビルが墓標の連なりに見えてきた。



 (画像はイメージです。)
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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