008 父の教育は哲学だった
文字数 2,162文字
野球というチームプレーに興味はない。俺はただ一人で素振りをし、孤独にボールを打つだけだ。野球などというものはチームワークの美名のもとに、ありもしない連帯感を演出している偽善にすぎない。チームは一丸、全員野球などと建前は美しいが、水面下ではレギュラーの座をめぐって、おたがいに醜い争いをくりひろげている。レギュラーなどというものは最も実力のある者、水面下で地道に努力した者が選ばれるのではなく、口先巧みに監督にとりいって、最も効率よく自分をアピールした者、あるいは最も実力があると監督に錯覚させた者が選ばれるのだ。だから誰もが平気で仲間を売り、チームメイトを
俺にバットの振り方を教えてくれたのは父だった。小学校低学年のとき、父に金属バットを買ってもらった俺は、さっそく庭に出て素振りをはじめた。最初は足腰が定まらず、重いバットに振り回されて、ふらふらとよろめいているだけだった。
「
父も屋内から庭におりてきて、バットを握る俺の手のうえから、自分の手を添えてコーチしはじめた。分厚く、力強い手だった。
「自分の背骨を一つの軸とする。地面から頭のてっぺんまで貫くまっすぐな軸だ。この軸を基準として、体を水平に回転させる。下から上への順だ。まず両足でしっかり地面を踏まえる。膝はすこし曲げて余裕をもたせておけ。突っ張ってたら、すばやい動作はできないぞ。おまえは右利きだから、左足が前、右足が後ろの構えになるな。ボールが来たら、後ろの右足から前の左足に重心を移す。重心の移動に合わせて腰を回転させる。さっき言った軸がブレないように。その回転を上半身に伝える。肩が回転し、腕が回転する。ミートする瞬間、腕とバットは一直線になるように。それで最も効率よく力を伝えることができる。足、腰、上半身、肩、腕と、下から上へ回転を伝えていくんだ。人間の腕だけの力なんてタカが知れている。それではボールは遠くへ飛ばないぞ。全身のバネで打つんだ。体全体の回転で打つんだ。分かったか?」
俺はうなずくと、いま父親に教えられたとおりにやってみた。足、腰、上半身、肩、腕。軸を意識しながら、下から上へ回転を伝えていく。二、三〇回くりかえしているうちに、しだいに打撃フォームがサマになってきた。金属バットが風を切る唸りに迫力が増す。父は目を細めながら、満足そうに見ていた。
「今度は左手をまっすぐ正面水平に突き出してみろ。その左手にバットを握る。天にむかって一直線に立つように。できたな? つぎに右手の手刀でバットをコンコン叩いてみろ。上の太いほうから。どうだ?」
「ビンビン響きが伝わってくる」
「うむ。じゃあ、叩く位置をだんだん下にさげていってみろ」
「あ! 響きが止まった」
バットを叩く位置を上から下に移動していくと、ある位置で左手に伝わる振動がぴたりと止まったのだ。バットが衝撃を吸収している。安定感がある。
「その位置がバットの芯だ。そこにボールが当たったとき、最大限の飛距離をうむ。芯からズレたら、当たりそこねだ。ファールかゴロにしかならない。さっき打撃フォームを教えたが、あれだけじゃ駄目だ。ただバットを力まかせに、やみくもに振っているだけじゃ駄目なんだ。芯で捉えないとな。こいつは人生も同じで、ただがむしゃらに進んでいっても駄目だ。どんな努力でもすれば報われるというほど、人生は甘くない。もっとも重要な時期に、もっとも効果的な形で力を尽くさなければならない。人生も、芯に当てるんだよ。言ってることが分かるか? おまえには、まだ難しいか?」
父は真顔で俺を正視していた。小学生の俺には確かに難しい話だった。俺は必死で理解しようとした。父は声を荒げることなく、淡々と話した。男らしく、頼りがいのある太い声だった。
父は棒きれを拾うと、庭の地面に横一・二メートル、縦一・八メートルほどの大きな長方形を描いた。
「こいつはバッター・ボックスだ。野球のルールでは、バッターはこの中のどこに立ってもいいことになっている。亜樹夫、おまえだったら、どの位置に立ってバットを構える?」
俺はちょっと考えてから、ボックスの中央あたりに立った。
「まあ普通はそうだな。でも後ろに立ったほうが、ボールが届くまでの時間が長くなるぞ。ストライクなのか、ボールなのか、見きわめるための時間が延びる。ボールのスピードもおちる。そのほうが打ちやすいんじゃないか」
俺はバッター・ボックスの後方に移動した。
「本当にそれでいいか? カーブがきたら、どうする? カーブっていうのはな、ホームベースの前で、曲がる寸前に一瞬ボールが静止するんだ。その静止した瞬間を打つのが一番いい。カーブは曲り鼻を叩けって言うんだ。そのためにはバッター・ボックスの前の方にいたほうがいいだろ」
俺は途方に暮れてしまった。