065 人間はみんな繋がっている

文字数 1,979文字

 その日どうやって家までたどり着いたのか、その後は記憶がない。だが、とにかく俺は新宿から自宅まで約30キロを歩きとおし、ようやく暑さの緩んだ夕暮れ時、家の玄関に倒れこんだのだった。

 しかし、それで終わりではなかった。すぐに父の部屋に呼ばれて、父の前に正座させられた。筋肉が硬直した足は容易には曲がらず、なかなか正座できなかった。日光に当たっていた腕と首筋の皮膚が、()れあがってひりひりする。

「若いんだから、放っときゃ治る」
 父は眉ひとつ動かさない。
「長い一日だったな。なんで俺がおまえを新宿から家まで歩かせたか、分かるか?」

「キセルをした罰だろ」
 不貞腐(ふてくさ)れて俺は答えた。

「ただの罰じゃない。新宿から自宅まで歩くと、こんなにも大変なんだ。くたびれはてて、一日がかりだろ。それをおまえに体で分からせるためだ。電車っていうのは、ありがたいな。今日丸一日かかって歩いた距離を、わずか30分ちょっとで運んでくれるんだ。それから考えれば、数百円の運賃なんていうのは安いものだ」

 たしかに、そのとおりだ。真夏の炎天下を汗水たらして歩き通した今日一日の時間と労力を考えれば、運賃の数百円は信じられないほど安いと言っても過言ではない。

「それを、おまえはごまかした。電車だって、ただ走っているんじゃない。運転する人もいれば、みんなが安心して利用できるように駅で安全管理している人もいる。電車の車体だって、車輪を作った人、シャーシーを作った人、パンタグラフを作った人、組み立てた人がいる。その電車も線路がなければ、走れないな。枕木を敷き、レールを敷いた人がいる。

 つまり電車一台走るのに、目に見えないところで何百、何千という人の力が集まっているんだ。運賃をごまかしたっていうことは、その人たち全員を裏切ったことになるんだぞ。電車だけじゃない。世の中は全部そうだ。人間は一人で生きているんじゃない。目に見えないところで、大勢の人たちに支えられて生きているんだ」

 父の言うとおりだった。俺は返す言葉もなく、黙って聞いていた。

「工務店という俺の仕事だってそうだ。家一軒建てるのに、コンクリートを流して基礎を造り、柱を組み、屋根を()いて、壁を塗る。それから内装工事だ。フローリング張りや、天井・壁・クロス張りに、内部塗装。ガラスの組み込み。電気の配線をする人、水道やガスの配管をする人。大勢の人間が力を合わせる。

 家っていうのは、ただの箱じゃないんだ。家族が寝起きし、子供が成長し、うれしいことや悲しいことがいっぱいあって、人間が生活していく血の通った器なんだ。だから俺が家を建てるときは、お客さんに喜んでもらおうと、精一杯、力を尽くす。

 家を建てるときに一番怖いのは、雨なんだよ。保管時点でフローリング板や建具が雨を吸ってしまったら、家に組みこんだあとで反っくり返ってしまう。ドアを開閉するたびに軋んだり、歩くたびに床鳴りがする原因になる。そんなことにならないように、俺は現場の資材は養生シートで厳重に梱包(こんぽう)して、ぜったいに雨が入りこまないように気を配っている。家の中に床材を張ったあとは、上に保護カバーを敷いて、室内スリッパを履いて作業する。土足は厳禁だ。人様の家でも自分の家だと思って作業をするんだよ。自分の家に土足で上がる馬鹿がいるか?

 人間が心を込めて作ったものには命が宿る。すでに単なるモノじゃないんだ。それ自体がひとつの生き物といってもいい。家でも、電車でも、スーパーで売ってる弁当でも、人間が心をこめて作ったものは何でもそうさ」

 職人気質で自分の仕事に誇りをもっている父は、そこまで神経を使って作業していたのだ。

「ところが、だ。こちらがそこまで丹精をこめて仕事しているのに、もしお客さんが代金をごまかしてきちんと支払ってくれなかったら、どう感じると思う? こっちは一生懸命やったのに、むこうは何だ、裏切ったのかって思うよな。それと同じことを、おまえはやったんだ。人間は信頼関係だ。おまえが電車の運賃をごまかしたってことは、目に見えないところで関係している大勢の信頼をぜんぶ裏切ったことになるんだ」

 腹の底にこたえるような重い言葉だった。俺は心から反省した。口先だけのセリフではなく、まる一日かけて炎天下で俺と同じ行程を踏破した体験の裏付けがあるから、父のその言葉には説得力があった。

 ──他人の信頼を裏切るな。人間はみんな(つな)がっている。

 父が身をもって俺の心に刻みつけたこの教訓は、今でも俺の心の中で脈打っている。ひとときも忘れたことはない。

 ……それをテレビニュースのゲストの仏頂面の大学教授氏は、俺の父が「教育を放棄していた」「自分に自信がないから子育てから逃げていた」と言うのか。おまえに何が分かるというのだ。おまえが、俺と父のことをどれほど知っているというのか!?
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み