第64話 恋人
文字数 1,405文字
目を開けると、その人が見下ろしていた。心配そうな顔。見覚えはなかったけれど、どこか寂しげな雰囲気を漂わせたその男性に、不思議な懐かしさのようなものを感じた。
医師に、自分が墓地で倒れて、救急車で運ばれたと聞かされたが、全く記憶になかった。その人は、いつの間にかいなくなっていて、その後、迎えに来た母とともに、車で家まで帰って来たのだった。
母に、その人が自分の恋人なのだと聞かされ、少し驚いたが、嫌な気持ちはしなかった。三十代半ばだと聞いたが、有希の目には、せいぜい二十代後半くらいにしか見えなかった。
恋人同士ならば、写真があるだろうと思い、スマートフォンをチェックしてみたのだが、そういう写真は一枚もなく、ひどく不思議に感じた。
唯一、記憶にない写真があった。高台から遠くの海を写したものだったが、それは、自分が倒れたという墓地から撮ったものらしかった。
母から、その人の知り合いの墓参りに行ったのだと聞かされたが、デートで墓参りだなんて、ずいぶん変わっていると思う。その後、どこかに行くつもりだったのだろうか……。
体は、なんともなかったけれど、母が心配するので、次の日の日曜日は、家でゆっくり過ごした。確かに、今まで一度も倒れたことなどなかったので、自分でも驚いた。
救急車で運ばれたそうだが、救急車に乗ったのも初めてだったので、何も覚えていないのは、ちょっぴり残念な気もする。
スマートフォンの中に、恋人だという「伸くん」の電話番号があったので、かけてみたけれど、何度かけても「伸くん」は出なかった。
翌朝、制服を着てダイニングルームに行くと、いつものように、母が朝食の支度をしていた。どんなに遅く帰って来ても、母は必ず起きて、有希と一緒に朝食を取るのが習慣だ。
「おはよう。体調はどう?」
「おはよう。元気だよ」
母が微笑む。
「たいしたことなくて、よかったわ。安藤さんと、連絡は取れたの?」
「うぅん。電話をかけても出ないんだ」
「そう……」
彼が、いつの間にか病院から姿を消したことには、母も意外そうにしていた。彼は礼儀正しく、そういうことをするイメージの人ではなかったらしい。
もっとも、自分が、彼を母に紹介したのは、ごく最近のことで、それほど長く付き合っていてわけではないらしい。どうりで、写真もないわけだ。
だが、いくら有希が記憶をなくしたからと言って、いや、むしろなくしたからこそ、連絡をくれないのは不自然な気がする。別に仲たがいをしたふうでもなかったのに、何か事情でもあるのだろうか。
その後も、何度か電話をかけてみたが、彼が出ることはなく、彼からかかってくることもなかった。彼との記憶がないにも関わらず、有希には、そのことが不満だった。
倒れた恋人を、病院に置き去りにして帰ったまま、連絡もくれないなんて、ずいぶん冷たいではないか。自分は、彼にとって、その程度の存在だったのか……。
有希には、彼以外に誰かと付き合った経験がないので、正直なところ、こういうときに、恋人が、どういう態度を取るのが一般的なのか、よくわからない。だが、やはり普通は、倒れた相手を心配して、家まで付き添ってくれるとか、そうでなくても、連絡くらいはくれるべきだ。
有希が病院で目を覚ましたときの彼は、とても心配そうにしていたし、優しそうに見えたのに……。いつの間にか有希は、彼のことばかり考えていた。
医師に、自分が墓地で倒れて、救急車で運ばれたと聞かされたが、全く記憶になかった。その人は、いつの間にかいなくなっていて、その後、迎えに来た母とともに、車で家まで帰って来たのだった。
母に、その人が自分の恋人なのだと聞かされ、少し驚いたが、嫌な気持ちはしなかった。三十代半ばだと聞いたが、有希の目には、せいぜい二十代後半くらいにしか見えなかった。
恋人同士ならば、写真があるだろうと思い、スマートフォンをチェックしてみたのだが、そういう写真は一枚もなく、ひどく不思議に感じた。
唯一、記憶にない写真があった。高台から遠くの海を写したものだったが、それは、自分が倒れたという墓地から撮ったものらしかった。
母から、その人の知り合いの墓参りに行ったのだと聞かされたが、デートで墓参りだなんて、ずいぶん変わっていると思う。その後、どこかに行くつもりだったのだろうか……。
体は、なんともなかったけれど、母が心配するので、次の日の日曜日は、家でゆっくり過ごした。確かに、今まで一度も倒れたことなどなかったので、自分でも驚いた。
救急車で運ばれたそうだが、救急車に乗ったのも初めてだったので、何も覚えていないのは、ちょっぴり残念な気もする。
スマートフォンの中に、恋人だという「伸くん」の電話番号があったので、かけてみたけれど、何度かけても「伸くん」は出なかった。
翌朝、制服を着てダイニングルームに行くと、いつものように、母が朝食の支度をしていた。どんなに遅く帰って来ても、母は必ず起きて、有希と一緒に朝食を取るのが習慣だ。
「おはよう。体調はどう?」
「おはよう。元気だよ」
母が微笑む。
「たいしたことなくて、よかったわ。安藤さんと、連絡は取れたの?」
「うぅん。電話をかけても出ないんだ」
「そう……」
彼が、いつの間にか病院から姿を消したことには、母も意外そうにしていた。彼は礼儀正しく、そういうことをするイメージの人ではなかったらしい。
もっとも、自分が、彼を母に紹介したのは、ごく最近のことで、それほど長く付き合っていてわけではないらしい。どうりで、写真もないわけだ。
だが、いくら有希が記憶をなくしたからと言って、いや、むしろなくしたからこそ、連絡をくれないのは不自然な気がする。別に仲たがいをしたふうでもなかったのに、何か事情でもあるのだろうか。
その後も、何度か電話をかけてみたが、彼が出ることはなく、彼からかかってくることもなかった。彼との記憶がないにも関わらず、有希には、そのことが不満だった。
倒れた恋人を、病院に置き去りにして帰ったまま、連絡もくれないなんて、ずいぶん冷たいではないか。自分は、彼にとって、その程度の存在だったのか……。
有希には、彼以外に誰かと付き合った経験がないので、正直なところ、こういうときに、恋人が、どういう態度を取るのが一般的なのか、よくわからない。だが、やはり普通は、倒れた相手を心配して、家まで付き添ってくれるとか、そうでなくても、連絡くらいはくれるべきだ。
有希が病院で目を覚ましたときの彼は、とても心配そうにしていたし、優しそうに見えたのに……。いつの間にか有希は、彼のことばかり考えていた。