第11話 万年筆

文字数 1,499文字

 佐賀は、万年筆を床に投げ捨て、行彦のすぐ横の壁を、ドンと力任せに叩いた。恐怖のあまり、ぎゅっと目をつぶりながら身をすくめる。
「いい気になってんじゃねぇぞ」
 佐賀は捨て台詞を残して、足音を響かせながら教室を出て行った。膝が、がくがくと震え、腰が抜けたようになって、行彦は、壁に背を預けたまま、床まで、ずるずると滑り落ちた。
 
 
 物心がついた頃から、行彦は、母の響子と、家政婦の芙紗子とともに、森の洋館で暮らしていた。芙紗子は、母が子供の頃から家に仕えていた人で、母の両親が亡くなった後に、資産家だった両親が残した洋館に、一緒に引っ越して来たのだという。
 行彦の父は、早くに亡くなったと聞いた。海外出張の帰りに、乗っていた旅客機が墜落したのだそうだ。
 父はいなくても、優しく美しい母と、穏やかで働き者の芙紗子に囲まれ、行彦は幸せだった。そう、学校に上がるまでは。
 
 
 町の人たちは、よそ者で、町から少し離れたところに建つ大きな洋館に住み、母子家庭である行彦たちを敬遠した。田舎では、よくあることだと母は言い、行彦も気にしていなかったのだが、小学生になっても、友達は一人も出来なかった。
 それは、行彦の外見も関係しているらしかった。それまで、自分の容姿を意識したことはなかったのだが、色が白く、華奢な体形と、どこか中性的な顔立ちは、しばしば、からかいの対象になった。
 鏡に自分の姿を映して、まじまじと見てみても、自分では、それほど、ほかの子と違うようには思えないのだが、「気持ち悪い」とか「オカマ」などと言われ、思えば、それがいじめの始まりだった。
 
 学校では、いつも一人ぼっちで、人にからかわれるのは嫌だったが、心配をかけたくなくて、母には黙っていた。学校では孤独でも、家に帰れば、母と芙紗子がいて、一緒に過ごしたり、あれこれと世話を焼いてくれたりするので幸せだった。
 いじめとは言っても、口でいろいろ言われるだけで、実害があるわけではなかった。
 
 
 中学生になると、だんだん、自分だけが異質であるような自覚が芽生えて来た。自分の性別に違和感があるわけではないが、男らしさとは程遠い外見をしていると思う。
 体育の授業の前の着替えのときなどに、奇異なものを見るような視線を感じたり、あからさまに、性的な言葉でからかわれることもあった。
 その一方で、ときには男女問わず、告白めいた手紙を受け取ったりすることもあったが、一度も、それらに答えたことはなかった。行彦自身は、まだ誰かを好きになったことがなかったし、相変わらず、友達もいなかった。
 
 
 それは、高校に入学した年のことだった。
 家に帰って、宿題をするためにペンケースを開けたとき、万年筆がないことに気づいた。母が、入学祝にプレゼントしてくれた、大切な万年筆だ。
 どこでなくしたのか覚えていないが、帰る途中でペンケースを開けてはいないから、あるとすれば、教室の机の中だろうか。迷った末に、探しに戻ることにした。
「それなら、明日でいいじゃない」
 母は、そう言ったが、もしも、なくしてしまったらと思うと、心配で、居ても立ってもいられない。行彦は、部屋着から、再び制服に着替えて家を出た。
 
 
 学校に着く頃には、夕暮れ時になっていたが、グラウンドでは、まだ運動部の生徒たちが走り回っている。あまり体が丈夫でない行彦は、クラブに入っていない。
 玄関で上履きに履き替え、一階の長い廊下を教室に向かう。教室に着いて、そろそろと引き戸を開けると、誰もいないと思っていた教室に、ぽつりと座っている人影が見えて、行彦は、はっとした。
 誰かが座っているのは、行彦の席だ。
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