第42話 涙の雫

文字数 1,006文字

 言いかけたまま答えない行彦の顔を見ているうちに、ようやく大事なことを思い出した。そのために病院を抜け出して、ここに来たのだった。
「今日、立花さんが病院に来たんだ。明日から、洋館の解体工事が始まるって。
 でも、そうなったら、行彦はどうするの? ずっとここにいたんだろ? 居場所がなくなっちゃうじゃないか」
「それは、僕にもわからないんだ」
「……えっ?」

 行彦が、寂しげに笑う。その笑顔に、胸が痛くなる。
「僕にわかっているのは、ただずっとここにいるということと、伸くんと愛し合うたびに、どうやら僕が伸くんの命を削っているらしいということだけだよ」
「行彦……」
「本当に、この洋館がなくなったら、僕はどうなるのかな。この世に居場所がなくなって、ようやく天国に行けるのかな。
 でも、お母さんや伸くんに、ひどいことをしてしまったから、やっぱり天国は無理かも……」
 
 寂しそうにつぶやいていた行彦が、ふと伸の顔を見て言った。
「どうしたの?」
「……何が?」
「伸くん、どうして泣いてるの?」
 そう言われ、頬に触れると、確かに涙で濡れている。
「だって、行彦がかわいそうで……」
 言ったとたんに、新たな涙が込み上げる。それを見た行彦の目にも、涙が湧き上がる。
 
「俺の言うことを、どうか怒らないで聞いてほしい。正直なところ、今もまだ、行彦が死んでいるなんて信じられない。
 もちろん、行彦が嘘をついているなんて思っていないよ。だけど、行彦は、こうして俺の目の前に存在していて、息遣いだって香りだって感じられるし、触れることも出来る。
 行彦が、俺のためを思って、辛い選択をしたこともよくわかっている。俺だって、これ以上、行彦を悲しませたくない。
 でも……」
 
 感情が高ぶって、いったん話すことを中断しなければならなかった。頭の中が混乱してもいる。
 だが、行彦は、辛抱強く待っていてくれた。伸は、再び口を開く。
「行彦のことを、とても愛している。ずっと一人ぼっちだった俺に優しくしてくれて、話を聞いてくれて、すごくうれしかったし、行彦と愛し合うようになってから、ずっと幸せだった。
 出来ることなら、ずっと一緒にいたいけど、それが駄目だっていうことは、行彦の話を聞いて、よくわかったよ。
 だから、最後に、もう一度だけ……」
 もう一度だけ、行彦と深く愛し合いたい。行彦が、こくりとうなずいた瞬間、その目から、宝石のように美しい涙の雫がこぼれ落ちた。
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