第68話 実家

文字数 1,387文字

 重い足を引きずりながら、マンションに帰った。部屋に入るなり、今日もまた、ユウとの思い出が胸をえぐる。
 苦しくて、とてもこの部屋にはいられない。ユウと愛し合ったベッドでなんか寝られるわけがない。
 いい年をして情けないと思いながら、伸は、久しぶりに母に電話をかけた。友達のいない伸には、こんなときに頼れるのは母しかいないのだ。
 
「どうしたの? めずらしいわね」
 聞き慣れた明るい声に、思わず涙ぐみそうになり、自分は、そうとう弱っているらしいと感じる。
「別に用事はないんだけど、これから、そっちに行ってもいいかな」
「もちろん。夕飯は、カフェのメニューでいい?」
「うん。ビーフシチューがいいな」
 子供の頃から大好きなメニューだ。
「わかったわ。今夜はこっちに泊まる?」
「うん」
「そう。いつでもいらっしゃい」
 電話を切ると、すぐに部屋を出た。実家までは、自転車で二十分ほどだ。
 
 
 家に着くと、カフェは閉まっていた。玄関から入った伸は、迎えてくれた母に聞く。
「今日は休みなの?」
「そうじゃないけど、あなたが来るって言うから、今日は早仕舞いしたのよ」
「営業妨害しちゃったかな」
 話しながら、居間に行く。
「いいのよ。どうせお客が途切れたところだったから。そんなことより……」
 母が、伸の顔を見つめる。
「痩せたわね。顔色もよくないみたい。仕事、大変なの?」

 伸は、ソファに座りながら言う。
「そんなことないよ。むしろ暇なくらい。フォレストランドも、鳴り物入りでオープンしたわりに、今じゃ、たいした集客率でもないしね」
 最近は特に、来場者が減っている気がする。
「それならいいけど、あなたの体が心配よ」
 高校生のときには、入院したり、騒ぎを起こしたりして、ずいぶん心配をかけてしまったが、その後は、特に病気もしていない。だが、あのとき以来、母は、伸の心や体のことを、とても気にするようになったのだ。
「大丈夫だよ。ありがとう」

 キッチンで食事の用意をしながら、母が言う。
「なんなら、そろそろカフェのほうを手伝ってもらおうかな。お母さんも年だし、もう十分修行になったでしょう」
「うん……」
 それもいいかもしれない。二人でやれば、メニューももっと増やせるし、将来的には、もう少し店舗を広げてもいい。
 この機会に、マンションを引き払って、ここに戻って来ようか……。
 
 
 母には大丈夫だと言ったし、自分でもそのつもりだったのに、夜半、目が覚めると悪寒がした。久しぶりに実家に帰って気が抜けたせいか、精神的なダメージのせいなのか、発熱していたのだ。
 翌朝になっても熱は下がらず、やむを得ず、仕事を休むことにして、中本に、電話で事情を話した。
「悪いけど、今日一日だけ頼むよ」
「任せてください、って言いたいところですけど、わからないことがあったら電話してもいいですか?」
「あぁ、もちろん」
「団体客、来週でよかったですよ。それじゃ、お大事に」
「悪いね。ありがとう」

 電話を切ると、そばで聞いていた母が言った。
「病院に行って来なさい」
「寝てれば治るよ」
 だが、母は顔をしかめる。
「ちゃんと治さないと、みなさんに迷惑がかかるでしょう」
「それもそうか……」
 母の言う通りだと思い、午前中に、近くの病院に行って診てもらい、帰って来てからは、ずっと部屋のベッドで横になっていた。その日の夜も、そのまま実家に泊まることにした。
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