第54話 まっさら

文字数 1,066文字

 もう片方の手を、彼の手の上に重ね、静かに泣き止むのを待つ。やがて、彼が言った。
「僕は、伸くんにも、お母さんにも、たくさん辛い思いをさせてしまった。
 あのとき、伸くんの前から消えたときに、全部終わったんだとばかり思っていたのに、こんなに長い間、伸くんを苦しめていたんだね」
「もういいって」
 伸は、彼の手の甲をぽんぽんと優しく叩く。
「今日、すべて報われたよ」
「伸くん……」

 ふと目の前のコーヒーカップが目に入る。二人とも、手をつけないままだ。
「冷めちゃったね。淹れ直そうか。それとも紅茶のほうがいい?」
 伸が立ち上がるより前に、彼が椅子を引いて立ち上がった。そして、テーブルを回ってそばまで来る。
 彼は、遅れて立ち上がった伸の手を握って言った。
「伸くん。もう、僕と何度しても、命を削ることはないよ」
「え?」
「だって僕は、生きているんだから」
 そう言いながら、伸の体を抱きすくめる。
 
「君」
「僕は、行彦だよ。行彦って呼んで」
「でも……」
「ねぇ、したい。したくてたまらない。お願い……」
 話すたび、首筋にかかる息が熱い。
 
「ちょっ、ちょっと待って」
 伸は、彼の体を引きはがす。彼が、潤んだ目で、不満そうに見上げる。
「……僕のこと、嫌いになったの?」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど、君は、行彦だけど、西原有希で……」
「だから?」
「こんなこと、今のお母さんが知ったらどう思うか」

 彼は、じれったそうに体を揺する。
「ママならわかってくれるよ」
「でも、男同士だし、年の差もあるし」
「ママは、そんなことを気にする人じゃないよ。世間の常識より、僕の幸せを一番に考えてくれるに決まっている」
「でも……」
「もう!」
 彼が、伸の胸をどんと叩いた。
 
「僕は、伸くんに会うために、もう一度生まれて来たんだよ。今度は幽霊なんかじゃなくて、ちゃんと生きた人間として、伸くんと結ばれるように。
 今まで僕は、まったく恋愛に興味がなくて、それは、マザコンだからだってずっと思っていたけど、そうじゃなかったって、今日わかった。
 僕は、伸くんと結ばれるために、心も体も、今まで、まっさらなままでいたんだよ!」
「あ……」
「それでも駄目なの?」
「いや……」

 それから彼は、はっとしたように伸の顔を見た。
「もしかして、好きな人がいるの?」
 伸は、あわてて否定する。
「いないよ! いるわけないだろ」
「でも、誰かとした? そうだよね。あれから二十年近く経っているんだもの。そういうこともあるよね」
「……してないよ。誰とも」
 なんだか、ひどく恥ずかしいことを告白している気がするが。
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