第72話 涙

文字数 999文字

 数日後の夕方、仕事を終えて、噴水の前まで行くと、有希が、先に来て待っていた。密室状態にならず、かつ人目を気にせずに話が出来るところはどこかと考えたのだが、ここ以上に適した場所を思いつかなかったのだ。
 中本たちに見られないとも限らないが、従業員の通用門とは反対側の位置にあるので、それほど心配はないだろう。
 有希は、あの日のようにスマートフォンをこちらに向けたりはせず、立ち上がって、伸が近づいて行くのを待ち構えている。
 
「お待たせ」
「うぅん」
 伸がベンチに腰を下ろすと、有希も、それに倣った。さっそく、伸は問いかける。
「俺は、何を話せばいいかな」
 ちゃんと説明しない限り、有希は納得してくれそうにない。だから、話せる範囲のことだけは話そうと思って、ここに来たのだ。
「えぇと、いろいろあって、何から言えばいいのかわからないけど……」
 有希は、顎に指を当てて考えている。
「ゆっくりでいいよ」
 とは言え、閉園時間まで、あまり間がないが。
 
 やがて、有希が口を開いた。
「まず、僕が知りたいのは、僕と伸くんが恋人同士になった経緯っていうか」
 いきなり核心を突かれ、ぎくりとするが、いつか、彼が母親に語ったことをそのまま話す。
「君がアルバイトの面接に来たとき、緊張して具合が悪くなったのを、俺が介抱したんだよ」
「ふぅん。でも、そこからどうして?」
「それは……どうしてかな。波長が合ったというか、なんとなく惹かれ合ったというか」
 内心、冷や冷やしながら答える。まったく、彼は侮れないと思う。
 
「ふぅん……」
 納得したのかどうかわからないが、それについては深追いすることなく、話は先に進む。
「それで、僕たちは付き合っていたんでしょう? だったら、えぇと、キス、とか」
 言いながら、有希は顔を赤らめているが、最初から、えらく積極的だったのは彼のほうだ。だが、そこは簡潔に答えておく。
「それは、まぁ」

 そこから先を聞かれたら、どう答えるべきかと、内心あせったが、それらの記憶がない今の有希は、恥ずかしそうに続ける。
「じゃあ、じゃあさ、伸くんは、僕のことが好きだったんでしょう? だったら……」
 言葉が途切れたので、顔を見ると、思いがけず、有希は涙ぐんでいた。
「どうして泣くんだよ」
 愛し合った記憶もないのに。
「だって……」
 有希がしゃくり上げる。胸が苦しい。何も考えずに抱きしめることが出来たなら、どんなに楽だろう。
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