第81話 ビーフシチュー

文字数 1,222文字

 夢中になっていると、突然、有希が、伸の体を押し戻すようにして唇を離した。そして、息を弾ませながら、切なげな表情で言う。
「伸くん……」
「うん?」
「僕が、前に言ったこと、覚えてる?」
「何?」
「伸くんのことを考えていたら、今まで一度も意識したことがなかった体のうんと奥のほうが、疼いて熱くなって、どうにも収まらなくなったって」
「……あぁ」

 有希が恥ずかしそうに言う。
「今も、そうなってる」
 伸は、じっと小さな顔を見つめる。伸には、それがどういうことなのかわかっている。
 なぜなら、今、熱く疼いて有希を苛んでいるそこは、伸だけが到達することの出来る場所だから。
「俺に、どうにかしてほしい?」
 有希が、こくりとうなずく。伸は、有希の手を握って言った。
「おいで」


 終わった後も、二人はまだ、裸のまま抱き合っていた。伸は、胸に顔をうずめた有希の髪の香りに包まれている。
 腕の中で、有希がつぶやいた。
「伸くん」 
 返事の代わりに、伸は、有希の髪を撫でる。
「どういうことか、やっとわかったよ」
「うん?」
「あの疼きは、伸くんにしか鎮めることが出来ないんだって。それに……」
「それに?」
「すごく……」
「すごく?」

 すごく、どうだったのか答えてほしかったのに、有希は、伸の背中に回した腕にぎゅっと力を入れながら、全然関係のないことを言った。
「伸くんのお母さんの料理、すごくおいしいね」
 こんなときに、そんな話を……。伸は、がっかりしながら、それでも一応、話を合わせる。
「あのとき、店で何を食べたの?」
「オムカレーセットだよ」
「ふぅん」
 確か、人気のメニューだったはずだ。


 有希は、顔を上げて、無邪気に言った。
「伸くんは、お母さんの料理で何が好きなの?」
 伸は、即答する。
「俺は、ビーフシチュー」
「へぇ。それもおいしそうだね。食べてみたいな」
「今度、食べに行けばいい」
「うん。伸くんも一緒に行こう」

 そこで突然、伸は、あることを思い出した。
「そう言えば、今日はビーフシチューを作ろうと思っていたんだ」
 だが、それどころではなくなってしまった。
「えっ、そうなの? 伸くんのビーフシチューも食べたいな」
「いいけど、今日はもう無理だよ。時間をかけて煮込みたいし」
「そうか。明日、作る?」
「そうだな」
「じゃあ、明日また食べに来る。いい?」

 伸は、こらえきれなくなって笑い声を上げた。有希が、不思議そうに見ている。伸は、なおも笑いながら言った。
「別に頭がおかしくなったわけじゃない。ただ、あまりにも幸せ過ぎて、笑いが止まらなくて……」
 まさか、こういう展開になるとは思っていなかった。ほんの数時間前までは、自分は、もう二度と有希と会うこともなく、誰かと愛し合うこともなく、ずっと孤独なまま、テーマパークの片隅にある、お世辞にも流行っているとは言えないレストランで働き、何年かしたら、母のカフェを継ぎ、そのまま、地味に静かに年老いて行くだけの人生を送るのだとばかり思っていたのだ。
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