第28話 母親

文字数 1,131文字

 今のは、いったい、どういうことだ。頭が混乱している。わけがわからないのに、体が震え、涙がぽろぽろとこぼれる。
 数分後、ドアの外で声がした。
「行彦、入るわね」
 静かにドアが開き、母が入って来た。
「さっきはごめんなさいね。驚かせちゃって。あの人は、もう帰ったわ」
 そう言う母の顔は、ひどく青ざめている。
 
「お母さん。あの人……」
 震える声で言うと、母は、そばまで来て、ベッドに腰かける行彦の横に座り、そっと背中に手を添えた。
「安心して。家にあった現金を全部渡して、もう二度と来ないように言ったから。
 もしも来たとしても、芙紗子さんが追い返してくれるから大丈夫よ」
 母が優しく背中をさすってくれるけれど、僕が聞きたいのは、そんなことじゃない。
「あの人、僕に、自分のことを、お母さんって……」

「嘘よ!」
 母が悲鳴のように叫んだ。
「でたらめよ。あの人、どうかしているの。あんなでたらめ信じないで。
 そんな馬鹿なことがあるわけないじゃない。行彦は、私がお腹を痛めて産んだ子よ!」
「あ……」
 いつも優しくて美しい母が、目を血走らせ、大きな声で言いつのる。
「あの人、お母さんの大学ときの後輩なのよ。大学を辞めてから一度も会ったことがなかったのに、今になって、こんなところまでお金の無心に来て、あんな嫌がらせを言うなんて!」

「お母さん……」
 行彦は嗚咽する。今まで信じて疑わなかったものが、突然ひび割れ、崩れ落ちるのを感じた。
「嫌だ。お母さんこそ、嘘をつかないで。本当のことを教えて!」
 泣き崩れる行彦を、母が強く抱きしめる。
「行彦……私の大切な行彦……」
 母も泣いている。
 
 
 母は、いや、いままでずっと母だと思っていた人は、すべてを話してくれた。
 自分は、母と、亡き父の愛の結晶などではなかった。母の交際相手が、浮気相手との間に作った子供だったのだ。
 いや、浮気というよりは、心変わりをしたといったほうが正確かもしれない。みな独身だったのだから、それ自体は、そこまで罪深いことではなかったのかもしれない。
 だが、母の恋人だった男は事故で亡くなり、生物学上の母親は、僕を捨てた。
 
 僕をずっと大切に育ててくれた今の母を恨む気持ちなどない。本当の母親でなかったことはショックだけれど、母の孤独も、自分への愛が本物なのもよくわかる。そして、本当のことを隠したかった気持ちも。
 わかるけれど、あの、どこか卑しげで狂気を漂わせた女が自分の生みの親だったなんて! 言われてみれば、あの白い肌や貧相な体つきは、まさに自分に受け継がれているではないか。
 僕は、美しく上品な母とは少しも似ていない。そのことに、どうして今まで疑問を待たなかったのか。
 僕は醜い。外見も、体の中に流れている血も。
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