第74話 ドツボ

文字数 1,730文字

「上がって」
 有希は、玄関で靴を脱ぎながら、ものめずらしそうに部屋の中を見回している。つくづく、本当に何も覚えていないのだ思う。
「今、コーヒーを淹れるから、そこに座って」
 有希は、こくりとうなずいて、テーブルの前の椅子に座った。とりあえず部屋に連れて行って、彼が泣き止んで、少し落ち着いたらタクシーを呼ぼうと思っていたのだが、すでに有希は泣き止んでいる。
 なんだか調子が狂うが、コーヒーを飲んだらタクシーを呼ぶことにしよう。そう思い、伸はコーヒーの用意をする。
 
 有希が言った。
「この部屋、僕は、前にも来たことある?」
「……まぁ」
 言ってしまってから、うっかり正直に答えたことを後悔する。
「そうか」
 なんだか、嫌な予感がして来た。余計なことを聞かないでほしいものだが……。
「じゃあ、泊まったことは?」
 来た。
「いや、それはない」
「ふぅん……」
 それきり有希が口をつぐんだので、少しほっとする。
 
 
 伸は、コーヒーカップの一つを、有希の前に置いた。
「これを飲み終わったら、タクシーを呼ぶよ」
 有希が、じっと伸を見つめながら言う。
「飲んだら、早く帰れってこと?」
「そういうわけじゃないけど、俺たち、もう終わりにするんだから、ずっといるのもおかしなもんだろ?」
「だから……」
 有希の目に、またも涙が浮かぶ。
「その理由を教えて」

 伸は、ごくりとコーヒーを飲む。
「その話は、もう終わっただろ」
 有希の顔が歪み、涙がこぼれる。
「終わってないよ! どうして僕のことが嫌いになったのか、それを教えて!」
 堂々巡りだ。いったい、どうすればいい?
 
 途方に暮れている伸に向かって、有希は、泣きながら言いつのる。
「僕は、伸くんとのこと、何も覚えていない。だけど、伸くんのこと、たくさん考えたんだ。
 僕が病院で目覚めたときの伸くんは、すごく優しかったのに、どうして急に僕のことが嫌いになったんだろうとか、この人は、どうしていつも寂しそうなんだろうとか、どうして僕は、こんなに伸くんのことが気になって仕方がないんだろうとか。
 それから、恋人同士だから、キスくらいしただろうとか、その先はどうなのかとか……」
 
 苦しげに息をつき、涙をぬぐってから、さらに話す。
「僕は、伸くんの前に誰とも付き合ったことがないから、キスも、そのほかのことも、どんな感じかわからない。それなのに、伸くんのことを考えていたら、今まで一度も意識したことがなかった体のうんと奥のほうが、疼いて熱くなって、それが、どうにも収まらなくて……。
 それで気づいたんだ。それはきっと、伸くんと、したときのことを、体が覚えているんだって!」
 
「そんな、考え過ぎだよ。ただの妄想だろ? 君は今、そういうことに興味がある年頃だから」
 伸は、無理に笑って見せる。有希の目から涙がこぼれる。
「はぐらかさないでよ。僕は真剣に言っているのに」
「はぐらかすも何も、俺たち、そんなことしてないって」
「嘘。伸くんが僕を嫌いになったのって、そういうこと? 伸くんは、僕の体が気に入らなかったの?」
「やめろよ、そんな言い方。そんなことで、好きになったり嫌いになったりするような、俺は、そんな下衆じゃない」

 有希は、涙をぬぐって言った。
「ごめん……。もう帰るよ。最後に、もう一つだけ教えて。あの日、なんで僕たちは墓地にいたの?」
「それは、たまたま、俺の古い知り合いの墓参りに付き合ってもらったんだ。特に意味はない」
「ふぅん。じゃあ、そこで僕が倒れたのも、記憶を失ったのも、たまたま?」
「あぁ。たまたまだ」
「ふぅん。そうか。でも、なんだかすごく気になって仕方がないんだ。もう一度、一人で墓地に行ってみようかな。そうしたら、何かわかるかも」

「それはやめておけよ」
 つい、強い口調で言ってしまった。有希が、探るような目で見る。
「どうして?」
「どうしてって、また倒れたりしたら困るだろ?」
「どうして、また倒れると思うの?」
「そんなこと……」
 話せば話すほど、ドツボにはまって行く。有希の勘が鋭いのか、自分が間抜けなのか……。
 
「伸くん、やっぱり、僕に何か隠していることがあるんだね」
 やっぱり有希は鋭い。
「別に隠していることなんて……」
 そして、俺は間抜けだ。
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