第19話 母の話

文字数 1,108文字

 部屋から出られなくなったショックと、母に心配をかけている申し訳なさで、泣いてばかりいる行彦に、母は優しく言った。
「そんなに悲しまないで。学校がすべてじゃないし、家にいたって出来ることはたくさんあるわ。
 実は、お母さんも大学を中退しているのよ」
 それは、行彦が初めて耳にする話だった。そして母は、今まで、あまり語ることのなかった、自身の青春時代の話を聞かせてくれたのだった。
 
 
「大学時代、社会人の照彦さん、つまり、あなたのお父さんと付き合っていたのよ。照彦さんは、私が大学を卒業したら結婚しようって言ってくれていたの。
 でも、前に話したように、照彦さんは、海外出張の帰りの飛行機が墜落して亡くなってしまった。
 ショックだったわ。毎日、とても楽しくて幸せだったのに、突然、奈落の底に突き落とされたようだった。でも」
 そう言って、行彦の顔を優しい目で見つめる。
 
「お腹の中に、あなたがいたの。照彦さんは、もういなくても、照彦さんの血を分けた、あなたがいる。
 この子さえいれば、私は、この先も幸せに生きて行くことが出来る。これからは、この子と一緒に生きて行こう。
 そう思って、大学を中退して、芙紗子さんと、ここに引っ越して来たの」
 
 行彦は尋ねる。
「お母さんは、僕のために大学を辞めたの?」
「そうじゃないわ」
 母は微笑む。
「もともと、卒業したら、すぐに結婚するつもりだったし、そうでなくても、亡くなった両親の遺産があったから、就職するつもりはなかったのよ。
 だから、大学を卒業するメリットをそれほど感じなかったし、卒業まで通い続けるより、早く静かな生活を始めたかったの。
 行彦がいなくても、そうしていたと思うわ」
 
 行彦が、膝の上で握りしめた手を、母は、ぽんぽんと優しく叩く。
「私一人だったら、寂しくて、今のあなたみたいに、泣いてばかりいたかもしれないわ。でも、あなたがいたから、辛いことなんて何もなかったし、毎日、楽しかった。
 それは、今も変わらないわ。行彦、あなたには本当に感謝しているの。
 お母さんがついているから大丈夫。何も心配いらない。あなたは、ただいてくれるだけでいいのよ」
「お母さん……」
 泣くまいと思ったのに、涙があふれる。お母さん。僕の大好きなお母さん。
 
 
 相変わらず、部屋から出ることが出来ないし、ときどき悪夢も見る。それでも、母と静かに過ごす日々は、行彦に安らぎをもたらした。
 毎日、部屋で一緒に食事をし、母が、そばで刺繍や編み物をするのを眺めたり、本を読んだりして過ごす。
 ときには、窓から見える景色を絵に描いてみたり、芙紗子が部屋を掃除しに来るときは、恐縮されながら、それを手伝ったりもした。
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