第78話 かさぶた
文字数 1,294文字
このまま静かに過ごして行けば、やがては心の傷も、少しずつ癒えて行くかもしれない。そう思い始めた頃、スマートフォンに着信があった。
仕事を終えてマンションに戻り、久しぶりに、母直伝のビーフシチューでも作ろうかと思っていたところだった。
伸に電話をかけて来る相手は少ない。仕事のことで中本がかけて来たか、あるいは母か。
だが、それは有希からだった。噴水の前で別れてから、半月ほどが過ぎていた。
「もしもし。伸くん?」
「あぁ」
「有希だけど」
「うん」
「あのね、話があるんだけど、これから伸くんの部屋に行ってもいい?」
「いや、それは困る」
だが、有希は言った。
「実は今、マンションの前にいるんだけど」
「なっ……!」
なんてことだ。
自分は、つくづく間抜けだと思う。あんなに辛い思いをして、心ならずも有希を遠ざけ、ようやく今、心に負った傷に、かさぶたが出来始めたところだというのに、また自ら、かさぶたをはがそうとしている。
なぜ心を鬼にして、冷たい態度で追い返すことが出来ないのだ……。自己嫌悪に苛まれながら、伸は、玄関のドアを開ける。
ドアの向こうに、制服を着た有希が立っていた。
「伸くん。ひさしぶり」
そう言いながら、有希は、するりと中に入った。その顔は、相変わらず行彦にそっくりで、見るなり、胸がズキンと痛む。
「上がってもいい?」
「……あぁ」
有希は靴を脱ぐと、さっさとテーブルまで行って、椅子を引いて腰かけた。相変わらず、十歳以上も年下の有希のペースに押されている。
仕方なく、伸も向かい側に座る。
「で、話って?」
ぶっきらぼうに聞いた伸に、有希は眉を曇らせる。
「怒らないで」
「怒ってないさ」
有希が、すねたように言った。
「ならいいけど」
有希は、椅子の上で居ずまいをただし、話し始めた。
「伸くんの話、初めは、すごく驚いた。伸くんが僕と別れたいと言うのには、何か深い訳があるんだとは思っていたけど、ああいうことだとは思わなかったから」
伸は、黙ってうなずく。
「不思議な話とか怪談話は嫌いじゃないけど、僕自身は、そういう体験はしたことがないし、まさか自分の身に起こるなんて思わないし。伸くんが嘘をついているのかなって思ったりもしたけど、伸くんは、そんな人じゃないと思うし」
伸は、思わず笑った。
「俺の頭が、どうかしていると思った?」
有希は、あわてて否定する。
「そんなことないよ! ……でも、精神的に疲れているのかなっていうのは、ちょっとだけ。……ごめん」
有希はうつむく。やっぱりそうか。
「いいよ。それが、当たり前の反応だと思う」
伸の顔をちらりと見てから、有希は、再び話し始める。
「自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、すごくたくさん考えたよ。伸くんの言うように、全部忘れて新しく踏み出したほうがいいのか、それとも……。
だけど僕は、その話が本当でも、そうでなくても、やっぱり伸くんのことが好きなんだ。今も、嫌いだなんて感情は一かけらもないし、出来ることなら、そばにいたい。
でも、それにはやっぱり、伸くんの話を、自分なりに理解して受け入れて、納得しなくちゃいけないと思ったんだ」
仕事を終えてマンションに戻り、久しぶりに、母直伝のビーフシチューでも作ろうかと思っていたところだった。
伸に電話をかけて来る相手は少ない。仕事のことで中本がかけて来たか、あるいは母か。
だが、それは有希からだった。噴水の前で別れてから、半月ほどが過ぎていた。
「もしもし。伸くん?」
「あぁ」
「有希だけど」
「うん」
「あのね、話があるんだけど、これから伸くんの部屋に行ってもいい?」
「いや、それは困る」
だが、有希は言った。
「実は今、マンションの前にいるんだけど」
「なっ……!」
なんてことだ。
自分は、つくづく間抜けだと思う。あんなに辛い思いをして、心ならずも有希を遠ざけ、ようやく今、心に負った傷に、かさぶたが出来始めたところだというのに、また自ら、かさぶたをはがそうとしている。
なぜ心を鬼にして、冷たい態度で追い返すことが出来ないのだ……。自己嫌悪に苛まれながら、伸は、玄関のドアを開ける。
ドアの向こうに、制服を着た有希が立っていた。
「伸くん。ひさしぶり」
そう言いながら、有希は、するりと中に入った。その顔は、相変わらず行彦にそっくりで、見るなり、胸がズキンと痛む。
「上がってもいい?」
「……あぁ」
有希は靴を脱ぐと、さっさとテーブルまで行って、椅子を引いて腰かけた。相変わらず、十歳以上も年下の有希のペースに押されている。
仕方なく、伸も向かい側に座る。
「で、話って?」
ぶっきらぼうに聞いた伸に、有希は眉を曇らせる。
「怒らないで」
「怒ってないさ」
有希が、すねたように言った。
「ならいいけど」
有希は、椅子の上で居ずまいをただし、話し始めた。
「伸くんの話、初めは、すごく驚いた。伸くんが僕と別れたいと言うのには、何か深い訳があるんだとは思っていたけど、ああいうことだとは思わなかったから」
伸は、黙ってうなずく。
「不思議な話とか怪談話は嫌いじゃないけど、僕自身は、そういう体験はしたことがないし、まさか自分の身に起こるなんて思わないし。伸くんが嘘をついているのかなって思ったりもしたけど、伸くんは、そんな人じゃないと思うし」
伸は、思わず笑った。
「俺の頭が、どうかしていると思った?」
有希は、あわてて否定する。
「そんなことないよ! ……でも、精神的に疲れているのかなっていうのは、ちょっとだけ。……ごめん」
有希はうつむく。やっぱりそうか。
「いいよ。それが、当たり前の反応だと思う」
伸の顔をちらりと見てから、有希は、再び話し始める。
「自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、すごくたくさん考えたよ。伸くんの言うように、全部忘れて新しく踏み出したほうがいいのか、それとも……。
だけど僕は、その話が本当でも、そうでなくても、やっぱり伸くんのことが好きなんだ。今も、嫌いだなんて感情は一かけらもないし、出来ることなら、そばにいたい。
でも、それにはやっぱり、伸くんの話を、自分なりに理解して受け入れて、納得しなくちゃいけないと思ったんだ」