第39話 死者の場所
文字数 1,295文字
さっきとは反対に、横たわった行彦を、伸が見下ろす。行彦は、涙に濡れた瞳で見上げている。
「僕は、悪夢を見るようになった。毎晩毎晩、あの女が部屋に入って来ては、気味の悪い笑顔で僕に話しかけるんだ。『ボクちゃん、お母さんよ』って。
どんなにあらがっても、僕にしがみついて、がんじがらめにして離してくれない。僕は、怖くてたまらなくて……」
行彦の目から涙があふれて、目じりを伝って流れ落ちる。
「やがて、起きているときにも幻覚を見るようになった。後から落ち着いて考えれば、あれはただの幻で現実じゃないってわかるけど、その最中は、本当に恐ろしくて……。
繰り返すうちに、だんだん、それが幻なのか現実なのかわからなくなって、あの日……」
言葉が途切れ、行彦のきれいな顔が苦しげに歪む。
「行彦」
思わず触れた頬は、温かい。
行彦は、伸のその手を握り、絞り出すように言った。
「いつものように入って来たあの女から逃れたくて、どうしても触れられたくなくて、あの窓を開けて……飛び降りた」
そんな馬鹿な。やっぱり、言っている意味がわからない。行彦は、ここにこうして、俺の手を握って泣いているではないか。
伸は戸惑いながら、泣きじゃくる行彦を見下ろす。
しばらくの間、泣いていた行彦は、何度か深い呼吸を繰り返した後、さらに話し出した。
「その後のことは、よくわからない。気がつくと僕は、いつものように、この部屋の、このベッドの上にいた。
初めのうちは、窓から飛び降りたことも、悪夢か幻覚の一部だと思っていたんだ。でも、お母さんが部屋に入って来て……。
お母さんは、よろよろとベッドのそばまで来ると、床にうずくまって泣き出した。僕は心配になって声をかけたんだ。『お母さん、どうしたの?』って。
だけど、お母さんは……」
こぼれた涙を、伸はぬぐってやる。
「お母さんは、ちっともこっちを見てくれない。まるで、聞こえていないみたいに。それは、何度話しかけても同じだった。
だから僕は、ベッドから下りて、そばまで行って、お母さんの肩に手をかけようとしたんだ。そうしたら……。
手が……お母さんの体をすり抜けた。触ることが出来なかった。何度やっても!」
行彦は、拳を口に当てて激しく泣き出した。伸は、頭の中は混乱したまま、ほとんど無意識のうちに、行彦の髪を撫でる。
次に行彦が口を開くまでには、ずいぶん時間がかかった。
「……お母さんには、僕が見えていないし、僕の声も聞こえない。僕は、お母さんに触れることが出来ない。
それで、だんだんわかってきたんだ。そうなってしまったのは、多分、僕とお母さんがいる場所が違うからだって」
「……え?」
行彦が、伸の顔を見つめる。
「お母さんは生きている人の、僕は、死者の場所にいるからだって。やっぱり僕は、本当に窓から飛び降りて死んだんだ。
そう思って見てみると、黒いワンピースを着たお母さんは、ひどくやつれていて、とても辛そうに泣いている。それは、僕が死んだせいなんだって。
僕は、発作的に窓から飛び降りたことを、ひどく後悔した。大好きなお母さんを悲しませることになってしまった……」
「僕は、悪夢を見るようになった。毎晩毎晩、あの女が部屋に入って来ては、気味の悪い笑顔で僕に話しかけるんだ。『ボクちゃん、お母さんよ』って。
どんなにあらがっても、僕にしがみついて、がんじがらめにして離してくれない。僕は、怖くてたまらなくて……」
行彦の目から涙があふれて、目じりを伝って流れ落ちる。
「やがて、起きているときにも幻覚を見るようになった。後から落ち着いて考えれば、あれはただの幻で現実じゃないってわかるけど、その最中は、本当に恐ろしくて……。
繰り返すうちに、だんだん、それが幻なのか現実なのかわからなくなって、あの日……」
言葉が途切れ、行彦のきれいな顔が苦しげに歪む。
「行彦」
思わず触れた頬は、温かい。
行彦は、伸のその手を握り、絞り出すように言った。
「いつものように入って来たあの女から逃れたくて、どうしても触れられたくなくて、あの窓を開けて……飛び降りた」
そんな馬鹿な。やっぱり、言っている意味がわからない。行彦は、ここにこうして、俺の手を握って泣いているではないか。
伸は戸惑いながら、泣きじゃくる行彦を見下ろす。
しばらくの間、泣いていた行彦は、何度か深い呼吸を繰り返した後、さらに話し出した。
「その後のことは、よくわからない。気がつくと僕は、いつものように、この部屋の、このベッドの上にいた。
初めのうちは、窓から飛び降りたことも、悪夢か幻覚の一部だと思っていたんだ。でも、お母さんが部屋に入って来て……。
お母さんは、よろよろとベッドのそばまで来ると、床にうずくまって泣き出した。僕は心配になって声をかけたんだ。『お母さん、どうしたの?』って。
だけど、お母さんは……」
こぼれた涙を、伸はぬぐってやる。
「お母さんは、ちっともこっちを見てくれない。まるで、聞こえていないみたいに。それは、何度話しかけても同じだった。
だから僕は、ベッドから下りて、そばまで行って、お母さんの肩に手をかけようとしたんだ。そうしたら……。
手が……お母さんの体をすり抜けた。触ることが出来なかった。何度やっても!」
行彦は、拳を口に当てて激しく泣き出した。伸は、頭の中は混乱したまま、ほとんど無意識のうちに、行彦の髪を撫でる。
次に行彦が口を開くまでには、ずいぶん時間がかかった。
「……お母さんには、僕が見えていないし、僕の声も聞こえない。僕は、お母さんに触れることが出来ない。
それで、だんだんわかってきたんだ。そうなってしまったのは、多分、僕とお母さんがいる場所が違うからだって」
「……え?」
行彦が、伸の顔を見つめる。
「お母さんは生きている人の、僕は、死者の場所にいるからだって。やっぱり僕は、本当に窓から飛び降りて死んだんだ。
そう思って見てみると、黒いワンピースを着たお母さんは、ひどくやつれていて、とても辛そうに泣いている。それは、僕が死んだせいなんだって。
僕は、発作的に窓から飛び降りたことを、ひどく後悔した。大好きなお母さんを悲しませることになってしまった……」