第33話 植物園

文字数 1,134文字

 その日の夜、消灯時間を待って、伸は、病衣から私服に着替えた。かろうじて午後九時台までは、病院前のバス停から駅行きのバスがあることを、昼間のうちに調べてある。
 今の体調では、洋館までの距離を歩いて行くのは困難だと判断した。駅からは、タクシーに乗ろうと思っている。
 財布を入れたショルダーバッグを肩にかけると、そっと病室を抜け出し、夜間出入口から外に出た。
 
 
 駅までは、問題なく着いた。タクシー乗り場で、ドアを開けてくれたタクシーに乗り込みながら、運転手に告げる。
「植物園まで行ってください」
 初老の運転手が、バックミラーを見ながら言う。
「植物園って、山の麓の?」
「はい」
 運転手は、なかなか発車しようとしない。
 
 今度は振り返って、伸の顔をまじまじと見ながら言った。
「植物園なんて、この時間とっくに閉まってるだろう? なんの用だい?」
 伸は、適当に言葉を並べる。
「昼間行ったときに、忘れ物をしちゃって。明日の授業で使うんです」
「そうかい」
 運転手は、不審そうな顔をしながらも、前に向き直って発車した。
 
 
「ありがとうございました」
 運賃を渡し、降りようとする伸に、運転手が言った。
「真っ暗だけど、大丈夫かい?」
 通りには街灯があるものの、木々の奥に向かう、植物園に続く遊歩道の先は、闇に溶けている。だが伸は、ショルダーバッグのファスナーを開けて、小ぶりな懐中電灯を取り出して見せた。
「これがあるんで」
 病院内のコンビニを探し、幸運にも見つけたものだ。洋館の中を進むときのために買った。
 
 だが、運転手は、さらに言う。
「なんなら、忘れ物を取って来るまで、ここで待っていようか?」
 とても優しい人だ。ありがたいが、それは困る。
「いえ。この後、近くの友達の家に行く約束をしてるんで」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待って。……これ」
 ダッシュボードから何か取り出して、伸に差し出す。タクシー会社の電話番号が書かれた名刺だ。
「必要になったら電話して」
「ありがとうございます」


 タクシーが去るのを見届けてから、伸は踵を返し、奥に向かって数歩進んだ遊歩道から通りに戻る。親切な運転手は、具合の悪そうな少年が、こんな時間に一人で植物園に行くと聞いて、心配してくれたのだろう。
 嘘をついたことを申し訳ないと思う。だが、さすがに洋館に行ってくださいとは言えなかったのだ。
 もしもそう言っていたら、もっと心配されていたかもしれない。
 
 その洋館は、ここからそう遠くない。数日ぶりに、やっと行彦に会える。
 行彦は、突然行かなくなった伸のことを怒っているだろうか。それとも、寂しさに泣いているか……。
 とにかく、もう間もなく会うことが出来る。伸は、重い足を引きずるように歩きながら、坂道を上る。
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