第55話 香り

文字数 1,308文字

「本当に?」
「本当だよ」
「一度も?」
「……一度も」
 彼が、なんとも言えない表情をする。
「じゃあ、伸くんも、まっさらなんだね。幽霊としか、したことないんだ」
「『しか』って……」
 確かに、生まれてから一度も、普通に生きている人とセックスしたことはないのだ。もしや自分は、一般的には童貞ということになるのだろうか。
 
 彼がにっこり笑った。その顔が、たまらなくかわいらしい。
「じゃあ、まっさら同士だね。まっさら同士で、しよう?」
「あ、いや……」
 彼が、伸の手を握って強く引く。
「ねぇ、ベッドルームはあっち?」
 まだ躊躇している伸にかまわず、奥まで行って引き戸を開ける。
 
 ベッドルームというほどのものではなく、ただ、壁に寄せてシングルベッドがあるだけだ。
 彼は、壁を探って灯りを点けると、つかつかと部屋に入って行き、ベッドの上にごろりと横たわった。そして、引き戸のそばに立ち尽くしたままの伸に向かって言う。
「来て」
 仕方なく、のろのろとそばまで行くと、再び手を握られた。
「伸くん。お願い……」
「本当に、いいのか?」
 彼は、伸の顔を見つめたまま、吐息混じりに言った。
「いいに決まってる……」

 まだ戸惑いながら、伸は、彼の上に覆いかぶさるようにまたがった。あの頃、いつも愛を交わしていたキングサイズのベッドとは違い、伸のベッドは、ひどく狭い。
 途中で転げ落ちやしないかと思っていると、濡れた目で見上げながら、彼が伸の手に触れた。伸は、既視感を覚える。
 彼は、伸の手を、胸のボタンまで導いて言った。
「外して」


 いつしか戸惑いは消えていた。伸は、一つ一つ確かめるように、彼の体に触れ、味わう。
 間違いない。これは、疑いようもない行彦の体だ。白く滑らかな肌の感触も、触れたときの反応や、変化の仕方も、内腿の付け根にある、小さなホクロさえも……。
 やがて伸は、我を忘れ、彼の体に溺れ、何度も昇りつめては果てた。懐かしくも淫らで愛しい時間は、長く続いた。
 
 
 二人は、狭いベッドの上で、裸の体を寄せ合うようにして横たわっている。疲れて眠ってしまったのか、彼は、目を閉じたまま動かない。
 伸は、その襟足の辺りに顔を寄せて、甘くさわやかな香りを吸い込む。あの頃と同じ、大好きな香りだ。
 柔らかい髪に、そっと指先で触れていると、彼が目を開けた。
「ごめん。起こしちゃった?」
「うぅん」
 彼は、目をこすりがら微笑む。
 
 じっと見つめられ、間が持たなくなって言った。
「ねぇ、この香り」
「あぁ、シャンプーの香り?」
「あの頃と同じだね」
「うん。外国のブランドのシャンプーだよ。セレクトショップで見つけて香りをかいだとき、なんだか、すごく懐かしい気持ちになって、買って帰って、それ以来、ずっと使っている。
 今日、思い出したけど、洋館でも、同じものをずっと使っていたんだ。お母さんが気に入っていて」
「そうだったのか……」

 伸は、彼の髪に顔をうずめる。
「行彦の香りだ」
 彼が、首をすくめながら笑い声を上げる。
「くすぐったいよ」
「行彦」
 背中に手を当てて抱き寄せると、彼は素直に、伸の腕の中に収まった。
「伸くん、すごく素敵だったよ。あの頃と同じだった」
「行彦も」
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