第65話 アイスコーヒー
文字数 1,899文字
その日の放課後、有希は、フォレストランドというテーマパークの中にあるレストランに向かっていた。「伸くん」がそこで働いていて、有希がアルバイトの面接に行って出会ったということは、母から聞いた。
連絡をくれないならば、自分から会いに行けばいいだけだ。小さい頃から有希は、思い立ったら、すぐに行動に移さなければ気がすまない質なのだ。
広い店内は、客がまばらだった。
「いらっしゃいませ」
入ってすぐのテーブルに座ると、ポニーテールのウェイトレスがやって来た。
「アイスコーヒーください。それと」
有希が言う前に、彼女が言った。
「安藤主任ですか?」
「えっ?」
彼女は、あっけらかんと言う。
「ごめんなさい。違いました? この前も、お母さんといらして話されてましたよね」
「あっ、そうです。安藤さんをお願いします」
しばらくして、カウンターの横から姿を現した彼は、いったん足を止めて、ため息をついたように見えた。アイスコーヒーを載せたトレーを持って、テーブルまでやって来る。
「お待たせしました」
有希は、テーブルにグラスを置く彼の顔を見上げる。病院で見たときよりも、頬がこけ、顔色もすぐれないような気がする。
グラスの横に、ガムシロップとミルクを置いた彼は、立ったまま、問いかけるような目で有希を見た。
「冷たいな」
有希の言葉に、彼はしれっと返す。
「アイスコーヒーですから」
「もう! どういうつもり?」
彼は黙ったまま、外国人のように肩をすくめる。
「はぐらかさないでよ。僕の言いたいこと、わかってるくせに。『伸くん』」
彼の顔色が変わった。
「そういう話は、ここでは困ります」
「じゃあ、場所を変えて話す?」
「仕事中ですから」
あくまで他人行儀に話す彼に、だんだん腹が立って来た。
「僕たちの関係は、ママから聞いて知っているよ。ちゃんと話をしてくれるまで、僕はあきらめないから。
僕が倒れたのに、置いてきぼりにして、それっきりなんてひどいじゃない」
だが、彼が辛そうに目を伏せたとたん、言い過ぎた気がして後悔した。
「えぇと、とにかく話がしたいんだけど」
「わかったよ」
彼の口調が変わった。
「あと三十分ほどで店を閉めるから、噴水の前で待っていてくれる? なるべく急いで行くから」
有希は、時間をかけてアイスコーヒーを飲んだ後、閉店時間ぎりぎりになってから店を出て、パーク内の噴水までゆっくり歩いた。ベンチに座り、夕暮れ時の噴水や周りの景色をスマートフォンで撮っていると、やがて、私服に着替えた彼がやって来た。
こちらに向かって歩いて来る彼に、スマートフォンを向けて連写する。
「やめてくれよ」
顔を背け、腕で隠すようにしながら彼は言う。
「どうして? いいじゃない。恋人同士なんだから」
こちらを見ないまま、彼は有希の横に座った。
うつむいた横顔を見つめながら、有希は尋ねた。
「僕のこと、嫌いになった?」
彼の喉が、ごくりと動く。
「それは、僕が伸くんのことを忘れちゃったから?」
「……そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで?」
ずいぶん時間が経ってから、彼は言った。
「もっと、君に似合う人がいるだろう」
「何それ!」
思わず大きな声を出すと、彼が辛そうに目をつぶった。とても繊細な人なのだと思い、声のトーンを落とす。
「似合うかどうかは、僕が決めるよ。ていうか、似合うかどうかなんて関係ない。
大切なのは、お互いの気持ちでしょう?」
「でも君は、俺のことは忘れたんだろ?」
「やっぱりそうなんだ。伸くんは、僕が忘れたことを怒っているんだ」
「そうじゃないよ!」
彼がこちらを向き、目が合った。
だが彼は、気まずそうに、すぐに目をそらす。
「とにかく俺は、もう君とは付き合えない」
そう言いながら、ベンチから立ち上がる。
「伸くん」
「その呼び方、やめてくれ」
彼は、こちらに背を向けると、足早に去って行った。有希は、その背中を呆然と見つめる。
なんだよあれ。納得がいかない。
とても不思議だ。有希と彼は恋人同士で、母の話によれば、有希は、彼にぞっこんだったらしい。
だが、どういう理由か知らないが、それらの記憶は、すべて失われてしまった。つまり、有希は、彼のことを好きだった気持ちも覚えていない。
それなのに、彼のことが気になって仕方がないのだ。頭では忘れてしまっても、体の中のどこかには、彼を好きだった記憶が、今も厳然と残っているのかもしれない。
彼の辛そうな表情や、寂しげな背中が頭から離れない。うぬぼれているようだが、口では、あんなふうに言いながら、本当はまだ、彼は有希のことを愛しているのではないかと思えてならないのだ。
連絡をくれないならば、自分から会いに行けばいいだけだ。小さい頃から有希は、思い立ったら、すぐに行動に移さなければ気がすまない質なのだ。
広い店内は、客がまばらだった。
「いらっしゃいませ」
入ってすぐのテーブルに座ると、ポニーテールのウェイトレスがやって来た。
「アイスコーヒーください。それと」
有希が言う前に、彼女が言った。
「安藤主任ですか?」
「えっ?」
彼女は、あっけらかんと言う。
「ごめんなさい。違いました? この前も、お母さんといらして話されてましたよね」
「あっ、そうです。安藤さんをお願いします」
しばらくして、カウンターの横から姿を現した彼は、いったん足を止めて、ため息をついたように見えた。アイスコーヒーを載せたトレーを持って、テーブルまでやって来る。
「お待たせしました」
有希は、テーブルにグラスを置く彼の顔を見上げる。病院で見たときよりも、頬がこけ、顔色もすぐれないような気がする。
グラスの横に、ガムシロップとミルクを置いた彼は、立ったまま、問いかけるような目で有希を見た。
「冷たいな」
有希の言葉に、彼はしれっと返す。
「アイスコーヒーですから」
「もう! どういうつもり?」
彼は黙ったまま、外国人のように肩をすくめる。
「はぐらかさないでよ。僕の言いたいこと、わかってるくせに。『伸くん』」
彼の顔色が変わった。
「そういう話は、ここでは困ります」
「じゃあ、場所を変えて話す?」
「仕事中ですから」
あくまで他人行儀に話す彼に、だんだん腹が立って来た。
「僕たちの関係は、ママから聞いて知っているよ。ちゃんと話をしてくれるまで、僕はあきらめないから。
僕が倒れたのに、置いてきぼりにして、それっきりなんてひどいじゃない」
だが、彼が辛そうに目を伏せたとたん、言い過ぎた気がして後悔した。
「えぇと、とにかく話がしたいんだけど」
「わかったよ」
彼の口調が変わった。
「あと三十分ほどで店を閉めるから、噴水の前で待っていてくれる? なるべく急いで行くから」
有希は、時間をかけてアイスコーヒーを飲んだ後、閉店時間ぎりぎりになってから店を出て、パーク内の噴水までゆっくり歩いた。ベンチに座り、夕暮れ時の噴水や周りの景色をスマートフォンで撮っていると、やがて、私服に着替えた彼がやって来た。
こちらに向かって歩いて来る彼に、スマートフォンを向けて連写する。
「やめてくれよ」
顔を背け、腕で隠すようにしながら彼は言う。
「どうして? いいじゃない。恋人同士なんだから」
こちらを見ないまま、彼は有希の横に座った。
うつむいた横顔を見つめながら、有希は尋ねた。
「僕のこと、嫌いになった?」
彼の喉が、ごくりと動く。
「それは、僕が伸くんのことを忘れちゃったから?」
「……そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで?」
ずいぶん時間が経ってから、彼は言った。
「もっと、君に似合う人がいるだろう」
「何それ!」
思わず大きな声を出すと、彼が辛そうに目をつぶった。とても繊細な人なのだと思い、声のトーンを落とす。
「似合うかどうかは、僕が決めるよ。ていうか、似合うかどうかなんて関係ない。
大切なのは、お互いの気持ちでしょう?」
「でも君は、俺のことは忘れたんだろ?」
「やっぱりそうなんだ。伸くんは、僕が忘れたことを怒っているんだ」
「そうじゃないよ!」
彼がこちらを向き、目が合った。
だが彼は、気まずそうに、すぐに目をそらす。
「とにかく俺は、もう君とは付き合えない」
そう言いながら、ベンチから立ち上がる。
「伸くん」
「その呼び方、やめてくれ」
彼は、こちらに背を向けると、足早に去って行った。有希は、その背中を呆然と見つめる。
なんだよあれ。納得がいかない。
とても不思議だ。有希と彼は恋人同士で、母の話によれば、有希は、彼にぞっこんだったらしい。
だが、どういう理由か知らないが、それらの記憶は、すべて失われてしまった。つまり、有希は、彼のことを好きだった気持ちも覚えていない。
それなのに、彼のことが気になって仕方がないのだ。頭では忘れてしまっても、体の中のどこかには、彼を好きだった記憶が、今も厳然と残っているのかもしれない。
彼の辛そうな表情や、寂しげな背中が頭から離れない。うぬぼれているようだが、口では、あんなふうに言いながら、本当はまだ、彼は有希のことを愛しているのではないかと思えてならないのだ。