第50話 マンション

文字数 1,371文字

 その夜、自宅に戻ってから、彼に電話をかけた。
「あの、パークレストランの安藤ですが、西原、有希くんですか?」
「伸くん!」
 いきなり、うれしそうな声がはじける。
「えぇと……」
「そのしゃべりかた。やっぱり伸くんだ。僕は行彦だよ」
「でも……」
 やはり頭が混乱する。これはいったい……。
 
 言葉を継げずにいる伸に、彼が言った。
「伸くん、今、一人?」
「あぁ、うん」
 さらに、探るように言う。
「……結婚、とかは?」
「していないよ。今は、フォレストランドの近くのマンションに一人で住んでいる」
 三十歳になったのを機に、さすがに、このまま母と同居を続けるのもどうかと思い、独立したのだ。
 
「これから、そっちに行ってもいい?」
「えっ。……でも、もう遅いよ。お母さんが心配するだろう」
 履歴書によれば、西原有希も、母親と二人暮らしだ。
「大丈夫だよ。ママは、今の母親は、夜は仕事でいないし、そこまでタクシーで行くから」
「本当に大丈夫?」
 彼は、笑いを含んだ声で言う。
「本当に大丈夫だから、住所を教えて」
 こんなことをしていいのかと迷いつつも、疑問を解消したい欲求に勝てず、伸は、マンションの住所を教えた。


 電話を切った後、伸は、部屋の中を見回した。物は少ないし、母の、飲食に携わる者は普段の生活から清潔にという教えを守って、日頃から、きちんと片付けるよう心がけている。
 だが、装飾品の一つもない一人暮らしの部屋は、あまりにも殺風景ではないか。そういえば、客に出すような菓子も何もないが……。
 そんなことを思いながら、バタバタと、お湯を沸かしたりコーヒーカップを出したりしていると、思いのほか早く玄関のチャイムが鳴った。
 
 あぁ……。期待と不安で飛び出しそうな心臓を服の上から押さえながら、玄関のドアを開ける。
 白いシャツにデニム姿の西原有希は、制服のときよりも華奢に見える。そして、その顔は、やはり……。
 呆然と見つめていると、ドアを閉めた彼は、伸の胸に飛び込んで来た。
「会いたかった。伸くん……」
「あ、えぇと」
 ドギマギしているうちに、背伸びをした彼に唇を奪われた。突き放すことが出来ず、伸も、それに応じる。
 熱い舌が、伸の唇を強引に押し開けて入って来る……。
 
 
 長いキスの後、ようやく唇が離れた。息を弾ませた彼が、再び伸の胸にしがみつく。
 伸は、自身も荒い呼吸をしながら、息の間に言った。
「上がって」
 彼はまだ、靴を履いたままだ。伸から体を離した彼は、上気した顔で、ちらりと伸を見てから、ゆっくりと靴を脱いだ。
 
「座って」
 伸は、入ってすぐの食卓の椅子を引く。一応、椅子は二脚あるが、引っ越しのときに母が使って以来、伸以外には誰も座っていない椅子だ。
「今、コーヒーを淹れるから」
 椅子に腰かけた彼は、伸の言葉に、こくりとうなずいた。
 
 
「急だったから、何も用意していなくて」
 そう言いながら、コーヒーの入ったカップの一つを彼の前に置き、自分も椅子に座る。
「ありがとう。僕は伸くんに、一度も何も出したことがなかったけどね」
「それは……」
 彼が、コーヒーカップを両手で包み込むようにしながら言った。
「伸くん、混乱しているよね。僕もそうだけど、今、わかる範囲で説明するから、聞いてくれる?」
「うん……」
「過去のことは、全部忘れていたんだ。今日、伸くんと会うまでは」
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