第10話 再開発

文字数 1,890文字

 朝食のとき、母が、コーヒーの入ったマグカップを、伸の前に置きながら言った。
「昨夜、どこかに出かけた?」
 内心の動揺を隠しながら、伸は聞き返す。
「なんで?」
「玄関を開け閉めするような音が聞こえた気がしたのよ」
 気がしただけで、確証があるわけではないのか。伸は、トーストにバターを塗りながら言う。
「ふぅん。夢でも見たんじゃないの?」

 何気ないふうを装いながら、朝食の間中、ずっと胸がドキドキしていた。
 もちろん、これからも行彦に会いに行くつもりだが、そのことを母に知られたくはない。行彦のこともそうだが、余計な心配をかけたくないのだ。
 たとえ理由がどうであれ、高校生の息子が、毎晩遅い時間に出かけることを容認する母親はいないだろう。今夜からは、もっと気をつけなくては。
 
 
 毎晩、行彦の元を訪れているため、あまり寝ていないのだが、不思議なことに、昼間は眠気を感じることもない。学校では、やることもないので、ぼんやりしていることが多いが、決して眠いわけではなく、ずっと行彦のことを考えている。
 美しい顔、甘い香り、赤く柔らかい唇と、その奥の……。彼との一連のやり取りを、何度でも頭の中で反芻しては、そのたび胸の奥が切なく疼き、早く会いたくてたまらなくなる。
 いつしか伸は、夜の訪れだけを待ちながら、一日を過ごすようになっていた。
 
 
 その話は、母が、カフェの客から聞いたものだった。今、町議会では、町の再開発についての話が進んでいるという。
 この町を、一大観光地として世に打ち出すため、植物園がある辺り一帯に、テーマパークを造るというものだ。その話には、当然のごとく松園の父も関わっているらしい。
「あの洋館も、取り壊すことになるらしいわ」
「えっ?」
 それまで適当に聞き流していた伸は、母の言葉に顔を上げた。母は、伸に背を向けて、シンクで食器を洗っている。
 
「あの洋館って、あの山道を行ったところの?」
 母が、振り返って、ふふっと笑う。
「そうよ。ほかにないでしょう? 」
 そして、再びこちらに背を向けて、食器を洗い始める。
「ずっと空き家のままにしておくのは物騒だものね。松園さんが女性と会っていたって、ずいぶん噂になっていたみたいだけど、どうやら、その人は洋館の持ち主らしいわ」
「だけど……」
 伸のつぶやきは、母の耳には入らなかったようだ。
 
 
 伸は、自分の部屋に戻りながら考える。
 だけど、洋館には行彦が住んでいるではないか。それに、まだ会ったことはないが、行彦の母親も。
 みんな、あの洋館は空き家だと思っているが、あまりにひっそりと暮らしているので、誰も、人が住んでいることを知らないのだ。行彦たちも、いじめのこともあって、多分、町の人と関わりたくないと思っているのだろう。
 松園の父が会っていたというのは、行彦の母親なのだろうか。もしも洋館が取り壊された場合、行彦たちは、どうなるのだろう。
 今夜、会いに行ったときに、行彦に聞いてみなくては。
 
 
「伸くん、会いたかったよ」
 行彦は、まるで花がほころぶように微笑む。伸も、照れくさい気持ちを抑えながら言う。
「俺も……」
「今日は、ひどいことされなかった?」
 そう言いながら、行彦は、伸の手を握った。手のひらの傷は、もう治っている。
「何も」
 今日は、ホームルームが終わると同時に教室から駆け出し、やつらにつかまることなく家まで帰った。
「よかった」

 手をつないだまま、ベッドまで行って並んで腰かける。今までとは、ベッドの意味が違って感じられ、伸は、空いたほうの手で、騒ぐ胸の辺りのシャツをぎゅっと掴む。
 あぁ、そうだ。聞かなくてはならないことがあったのだ。そう思い、横を見ると、目を潤ませた行彦の顔が近づいて来た。
「伸くん……」
 かすかに開いた赤い唇。伸はもう、それがどれだけ柔らかいか知っている。伸よりも少し背の低い行彦に覆いかぶさるようにして、今日は、伸のほうから唇を重ねた。
  
 甘い香りに包まれながら、時間をかけて、行彦の唇と、その奥を丁寧に味わった。昨日キスを覚えたばかりの自分が、こんなに大胆になれるものかと、我ながら驚くが、恥ずかしいとは思わない。
 行彦も、唇と舌で、伸に答えてくれる。伸が、してほしいと思うように。
 
 
 唇を離したときには、二人とも息が弾んでいた。キスとは、息が切れるものなのだと思う。
 行彦が、伸の肩に頭を預けて言った。
「うれしい」
「え?」
「伸くんのほうから、してくれて」
 そう言われ、今になって恥ずかしくなる。
「伸くん、好きだよ」
「俺も……好き、だよ」
 こんなこと、初めて言った。今さら体中が熱くなる。
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