3-3 ふわふわとギリギリ 後にモヤモヤ
文字数 6,950文字
早朝。ミラオニの軽快なBGMを奏でる僕のスマホ。
ベッドから起き上がって、そのスマホを耳に押し当てる瞬間が僕は好きだ。
『おはよ。昨日はあれから、ちゃんと寝たんだろうな?』
電話口の向こうで、実ちゃんがにひひ、と意地悪そうに笑っている。
その笑い声につられて、僕も自然と唇の口角が上がる。
実ちゃんからモーニングコールが掛かってくるようになって、一週間とちょっと。
僕は今日の朝も、ふわふわの甘い卵焼きを頬張った時みたいな、穏やかな空気に包まれていた。
実ちゃんのモーニングコールの効果は絶大だった。
まぐろが起こしに来る前に頭をしゃっきりさせることができるし、原稿の入稿前というドタバタハラハラする時期だけど、余裕を持ってお弁当作りもできるし、何より出社してからもパワー全開で臨むことができる。
まあ、それでも仕事が終わる頃にはヘロヘロになっちゃって、元気もごっそりなくなっちゃうんだけど……でも、実は実ちゃんが夜も電話をくれるので、また朝みたいに元気をチャージできてしまうのだ。
最近は、SNSもまめに更新されてるし、電話でちらほらと忙しい様子を見せている実ちゃん。例の新しい仕事が良い変化をもたらしてるんだろうなあ、と思うと、僕も嬉しくなる。
実ちゃんも頑張ってるし電話もくれたしってことで、「僕ももうちょっと頑張ろうかな」なんて思っちゃって、仕事しちゃう時もあったりするんだよねえ。
お前、昔から張り切りすぎて無理するタイプなんだから、休む時はちゃん休めよ。
大事な時にぶっ倒れたらどうすんだ』
『褒めてねえ。
まあ、お前って結構頑固だし、説教くせーのは俺、好きじゃねえからこれ以上は言わないけど、誕生日当日に病院に担ぎ込まれるような事態にはなるなよ? 折角いいレストラン押さえたんだからな』
あ、そのレストラン、知ってる!
あそこ、少女漫画とのコラボメニューが期間限定で出されていたことがあって、一度取材に行ったんだけど、雰囲気がすごく好きでさ。
でも、予約が取りにくいって聞いたけど、よく取れたね?
いやー、ダメ元でも言ってみるもんだな』
まあ、俺も奢ってやれる程余裕はねえから、割り勘だけどな』
実ちゃんに〈恋人〉と呼ばれる度、僕は全身がむず痒い感覚に襲われる。
もぞもぞ動きすぎて、僕の膝の上でごろごろしていたまぐろがにゃーにゃー抗議してくるけど、それも気にならない。
待ち合わせとか細かいことは、夜にでも話そうぜ』
ちゅ、とくすぐったい音に、僕は思わずぷるぷると体を震わせた。
初めてのモーニングコールから、欠かさずやってくれる電話越しのキス。
される度にニヤニヤしちゃうけど、ちょっと慣れてきた。
実ちゃんのボリュームの下がった声を最後に、電話がぷつりと切れた。
僕が真似して電話越しのキスをしたから、ビックリさせちゃったかな。
それだけならいいけど、「小晴からのキスはないわー」って引かれちゃったらどうしよう。
そんなネガティブな考えが頭を過っているけれど、真っ暗になったスマホのディスプレイには満足げに唇を緩ませる僕が映っている。
へら、と目尻を下げて笑った瞬間、ごん、と鈍い音が聞こえた。
はた、としてその音が聞こえた方へ視線を向けると、中途半端に開かれたドアの向こうで渋い顔をしているお母さんがいた。
おでこを擦っているから、さっきの音はドアにぶつかった音だったようだ。打ち所が悪かったから渋い顔をしている……訳、じゃ、なさそう……。
恐る恐る尋ねたけど、お母さんはぎこちなく笑ったまま背を向けて、ひらひらと片手を振って出て行った。
ぴりっとした空気を察したかのように、まぐろが僕の膝から下りて、お母さんの後をいそいそと追いかけて行って。
一気に目が覚めた僕は、穴と言う穴から煙が噴き出るような熱さを感じながら、自室を飛び出して行ったのだった。
一時間弱の打ち合わせを終え、〈サミダレエンターテイメント編集部〉に戻って来た僕は書類だらけの自分の机の上に突っ伏した。
打ち合わせ相手は、今週末に入稿〆切の原稿を抱えているライターさん。同僚の渡辺くんが以前ぼやいていた通り、「いつも〆切ギリギリか、ぶっちぎる」ことで有名な人だ。
だけど、その筆力は確かなもので、彼が手がけた記事はどれも面白い。
その面白さの秘訣は、そのライターさんの情熱やこだわりにあると、僕は思っている。それは初回打ち合わせでもひしひしと感じたし、その思いに応えられるよう、僕も頑張らなきゃ、と幾度となく思わされてきた。
けど、まさかこの一ヶ月で何度も記事を一から組み立て直す羽目になった上に、〆切が目前に迫る今になっても、記事の完成が見えない事態に陥るとは……さすがに思わなかったな。
メールや電話でのやり取りも相当エネルギーを持って行かれるけど、直接会って話し合うと、その倍以上は疲れてしまうのも辛い。
項にピトッと当たった冷たい感触。そこから全身をゾクゾクと嫌な寒気が駆け抜け、僕は思わず立ち上がってしまった。
その次の瞬間、僕の視界に入って来たのは玄米茶のペットボトル――僕がいつも買うメーカーのものだった。
ペットボトルを僕に握らせ、空席だった渡辺くんの椅子に座ったのは、穏やかな笑みをたたえた編集長だった。
恐る恐るそう答えてみた途端に、僕の胃が嫌な痛みを訴え始める。
しかめっ面を浮かべてしまいそうで、ペットボトルに視線を落とした僕に、日和さんがふぅん、と呟いた。
こだわりたい気持ちは、分からなくもないんだけれどね。
期日を守って仕事をするのも、僕らの世界では大切なことだ。その辺りを彼にはもう少し意識してもらいたいのだけど。
……というか、僕からも再三伝えているはずなんだけど、どうして伝わらないんだろうねえ?
おずおずと視線を向けて、後悔した。
編集長、笑顔が滅茶苦茶怖い。背後からヌゥ……と怪しい影が見える気がする。
背筋にダラダラ、と冷や汗が流れ落ちるのを感じながら、僕はぐっと身を乗り出した。
ガッツポーズを作って笑ってみせた僕に、編集長が顎に手を添えてじっとこちらを見てくる。
ちょっと締まりのない笑顔だったかもと思って、僕は背筋を伸ばし、唇をきゅっと結んだ。
すると、編集長がふぅ、とため息を零した。
勢い良く頭を下げた僕。それに答えるかのように、僕の右肩にぽんぽん、と優しいリズムが乗せられた。
編集長に勇気づけられたお陰か、翌日、ライターさんから「明朝には仕上がりそうです」というメールが届いた。
とはいえ、〆切まであと二日と迫っているから、油断は禁物。
「不安だったら、すぐに確認します。いつでも連絡下さい」というメッセージを伝え、提出後に電話で入稿前の簡単な打ち合わせをする約束も取り付けた。
これで後は安心……という訳じゃない。他にもやるべき仕事はたくさんある。
瞳さんとのインタビュー記事の作成もほとんど手をつけられてないし、他にも後回しにしていたものはいくつもある。誕生日前日までは、編集部に泊まないと間に合わない。家に帰る時間も仕事にあてないと。
でも、全部乗り越えれば、誕生日。実ちゃんとのデートが待っている。
そういえば、忙しさにかまけて何も準備してないなあ。
どんな服を着ていこうかとか、何を話そうとか……挙げればキリがない程、こっちもやることがある。
思わず笑い声が零れ落ちた口に、「おっと」と僕は慌てて手で蓋をする。
ダメだなあ、最近の僕。
仕事中でもお構いなしに実ちゃんとのデートのことを無意識に考えちゃうから、すぐ口元が緩んじゃうんだよね。
さすがにそんな締まりのない顔を、この忙しない時期に編集長や同僚に見られる訳にはいかない。
だからここ数日は、休憩を兼ねてカフェ〈うのはな〉にノートパソコンを持ち込んで作業することが多かった。
日がとっぷりと沈んだ今も、その真っ最中だ。
僕は〈うのはな〉のテーブル席を一つ陣取り、作業している。全部の作業ができる訳じゃないけど、職場よりずっとリラックスできるから捗るんだよね。
唐突に僕の左頬を引っ張ったのは、碧人さんだった。
青い縁のある眼鏡を掛け、鼻の上まで大きなマスクで覆っていて、服装もモノトーンと全体的に地味な印象だ。
でも、眼鏡越しに見える冷ややかな灰色の目や、すらっとした体つき、佇まいは、変装しているけどモデルなんだなあ、と思わせるような魅力を感じる。
ぷいっとそっぽを向いた碧人さんは、足早にカウンター席へ行ってしまった。
いきなり登場した碧人さんだけど、実は彼にここで会うのは初めてじゃない。
瞳さんにインタビューした日――更に言えば、瞳さんと碧人さんのデートに同行した日でもある――以降、この〈うのはな〉でたまに声を掛けられるようになったんだ。
初めて声を掛けられた時は、僕がびっくりして叫んだ上に、うっかりコーヒーをテーブルにぶちまけるという失態を犯したせいで、「君のリアクション、うるさいんだけど」って怒られてしまったっけ。
本人曰く、通ってる大学から近いので勉強を兼ねて〈うのはな〉を利用することがあるんだとか。今も、カウンター席の隅っこでノートや筆記用具を広げている。
大人っぽい人だけど、ああやって勉学に励む姿を見ると、僕より年下だったのか……なんて改めて思ってしまったり。
もう一つの懸念事項を思い出し、僕は思わず頭を抱えた。
今年は〈デート〉という特別なイベントの元、〈恋人〉という設定で誕生日を迎えるんだから、当然、プレゼントもこだわったものにしたい。
そう思ってるんだけど、なかなか良い案は出て来ないから、困ってるんだ。
ここのところ、ずっと仕事に拘束されて、余裕もなかったし。
ぼうっと考えるより、気分転換も兼ねて近くのショッピングストリートでもちょっと歩き回ってみようかな。
職場から近いし、ちょっとの時間なら休憩の範疇に入るだろうし。
キーボードに指を添えたまま固まっていたら、木谷くんがポット片手に声をかけてくれた。
特に木谷くんは、上がる時に必ず話しかけてくれるでしょ? だから尚更覚えちゃったんだ。
……えっ、そんな変な笑顔だったかな。
なかなか買いに行く時間が取れなくて、考えても良い案が浮かばなくて。
だから、仕事の気分転換を兼ねて、ちょっと出歩いてみようかなって。
ご飯も、その時にさっと済ませるから、大丈夫だよ。
ノートパソコンを閉じ、木谷くんが淹れてくれたコーヒーを傾ける。
熱いコーヒーにじんわり体が温まるのを感じていたら、