2-10 恋のおわり
文字数 4,460文字
最初に僕の視界に飛び込んできたのは、大きな噴水。
夜空に手を伸ばしているかのような水のアーチを描いている。
そのアーチが赤、青、黄色……とくるくると色を変えている様子は、花火みたいだ。
でも、僕の手を引く実ちゃんは噴水をスルーし、その奥の景色を指差した。
その手前には赤煉瓦が敷き詰められた遊歩道があった。一定の間隔で置かれた街灯にほんのり照らされたその歩道は、噴水に負けず劣らずロマンチックな雰囲気を醸し出している。
拗ねる僕に、実ちゃんがケラケラ笑いながら煉瓦道に繋がる階段を下りていく。
一定の間隔で並ぶ、木製のベンチと真鍮の街灯。よく見るとベンチの背もたれや街灯の柱に、精巧な花模様が彫られている。
三つ目までのベンチをスルーし、四つ目のベンチで「ここ」と実ちゃんが腰を下ろした。
そん時が、瞳との初対面だったんだ。
その写真は雑誌に掲載されたから、お前も見たと思うけど。
もう五年も経っちまってるしな〜。覚えてなくても無理ねーだろうな。
言われてみれば、そんな写真、あった気がするかも。
雑誌に掲載された実ちゃんの写真は全部スクラップして、ファイルに纏めてあるから、帰ったら確認してみようかな。
瞳とはさっきのカラオケはもちろん、ラブホも行ったし、お互いの部屋も行ったし、遊園地とか旅行とか、色んなところに行ったし、それぞれに思い出もある。
でも、俺にとっては、ここでの出会いや初デートの思い出が、今でも一番大切なんだ。
夜の色をした水面を見つめながら、実ちゃんが言う。
特に瞳はさ、片思いを長く拗らせたせいか、なかなかライバル兼友達っていう関係を崩せなかったし、告る時も振られる覚悟決めてたから……付き合う前から消極的になっちまう癖がついちまってたみたいで。
けど、絶対付き合えないって思ってた瞳が、俺の恋人になったって実感がどうしてわかなかったんだよな。むしろ、俺と瞳がこんな恋人っぽいことしてていいのかって思いでいっぱいになっちまって、変に緊張しちまって……。
だから、かな。今まで付き合ったカレシと同じように、瞳に触れたいのに、触れられなくて。
息苦しそうに眉を寄せたかと思うと、実ちゃんがゆっくりと僕の方を振り返る。
目が合った途端、ふっと笑った実ちゃんに、僕はびくり、と肩を揺らした。
こっちに顔を近づけてきた実ちゃんに、僕は思わず目を瞑る。
数秒後、頬をむに、と引っ張られた。
慌てて瞼を押し上げれば、実ちゃんがにや、と意地悪そうに笑っていた。
実ちゃんに指摘されて何だか気恥ずかしくなってしまった僕は、俯いてしまった。
しばらくして、僕の頬から実ちゃんの指先がそっと離れていった。
そう。その初デートでできたことって言ったら、とりとめのない話をしたくらいだな。
んで、デートを重ねて、まず手を繋ぐところから始めて。
キスもここで初めてしたんだけど、そん時も、それ以上のことはできなかったな。
回数を重ねる内に、いつの間にかセックスもするようになってたけど。
……とにかく、あの頃の俺と瞳は、多分今のお前よりも恋愛下手だったと思う。
そう、らしくないんだよ。俺たちの始まりが、あんなウブなものだったなんて。
今の俺とお前の『恋人ごっこ』と似てるだろ?
まるで初恋みたいにアワアワして、まずは指先から触れていくところから進めて行って……拙い始まりだったけど、あれだって俺の本気の恋愛だったんだ。
まるで眩しいものを見ているみたいに、目を細めて。
対する瞳は、年を重ねれば重ねる程仕事も増えるし、デビューした頃よりもファンが着実に増えてる。
ライバルとして悔しく思わないこともないけどさ、それ以上に恋人として嬉しかったんだ。
モデルとして成功する瞳のことが、すげー好きだったから。
だから……誰よりも近くでそんな瞳を見ていたかった。
瞳と付き合っている中で、それがいつの間にかごちゃごちゃに混ざっちまって、自分でも分からなくなってた。
『ハル』としてのプライドはねーのかよって感じだよな。かっこ悪いよな。
瞳程じゃなくても、俺には応援してくれるファンが……小晴がいるんだもんな。
いつまでも、瞳に未練タラタラのかっこ悪い姿、見せてる訳にはいかねーから。
ぷるぷると閉じた瞼が震えて、目尻からうっすらと光るものが見えた瞬間。
僕は実ちゃんの肩を掴んでいた。
ぷちゅ、と小さな音を立てて触れた実ちゃんの唇は、塩味だった。
ぱっと見開かれた実ちゃんの目。その縁からぽろ、と涙が零れ落ちるのを見ながら、僕はそっと唇を離した。
実ちゃんは実ちゃんらしく、キラキラできるよ、これからも。
実ちゃんが、モデルとしてまた頑張りたいって思う限り。
僕も……もっと見たいよ、実ちゃんがキラキラしてるところ。
だから、これからも見せてよ、実ちゃん。
でも、心臓の高鳴りに反し、僕の心はとても静かで落ち着いていて。
突然、ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻く実ちゃん。
僕がきょとん、としていると、実ちゃんはぼそぼそと小さな声でこう漏らした。
実ちゃんが食い入るように僕を見つめる。
実ちゃんにまじまじと見つめられ、僕は頭のてっぺんから足の爪先まで熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
実ちゃんの方を見ることができず、そわそわと体を揺らすことしかできない僕。
すると、僕の両頬をそっと柔らかなものが包み込んだ。
いつもだったら「絶対無理ぃ!!」って言いながら固まっているところなのに、やっぱり今日の僕の瞼は実ちゃんに対して素直なようだ。
瞼を閉じていると、心臓の音がより大きく聞こえる。
人間の心臓って、こんなに力強い音をしてるんだなあ。お祭りで聞く和太鼓みたいに、お腹にまで響く感じがする。
そう思うと同時に、僕の唇は柔らかい感触に包まれていて。
僕の唇の表面を、柔らかくて温かいものが擦っていく。
さっきはポテトの塩味しか感じなかったのに、甘い味もする。
甘い味は、カラオケで実ちゃんが飲んでいたコーラかな。
コーラって、こんなに甘くて、全身が蕩けそうな熱い飲み物、だったっけ……?
僕がふぅ、と鼻先を鳴らすと、するり、と甘じょっぱい味が遠ざかって行った。