3-2 疑似恋愛感情

文字数 7,758文字

……お、おはよぅ……ございます……。

 映画デートの翌朝。

 僕は学習机横に貼ってある実ちゃんのポスターに、日課の挨拶をしていた。


 ……んだけど、今日はダメだ。


 昨夜は大分一人で盛り上がっちゃったんだけど、それが今になってもの凄く恥ずかしい。

 お陰で実ちゃんの顔を見るだけで昨日のことを思い出しちゃって、ポスターの彼に挨拶できない。せいぜい、チラチラ見るのが精一杯だ。

 いや、それならそれで、ポスターに挨拶なんかしなきゃいいじゃん、って話なんだけど、一応日課だからやらないと、落ち着かないと言うか……。


どうしよう……実ちゃん……。

折角キスにも慣れてきたのに、こんなんじゃ次に会った時にまた……。

 マイナスの方向に思考が巡りかけたその時、僕の部屋に大音量の※ミラオニのBGM(テーマソングアレンジver)が鳴り響いた。


※ミラオニとは?→『ミラクルオニ男ギャラクシー』の略。家庭用ゲーム機のソフト。ジャンルはRPGで、オニ男というキャラが色んなステージを旅したり、敵と戦ったりする。僕と実ちゃんが小学生くらいの頃に流行ったゲームだ。最近はゲーセンでもできる『アーケード版』が登場していて、僕たちのデートでも必ずといっていいほどやっているのだ!

うわぁっ、あ、あ、ああ、あっ!
 変な悲鳴を上げながら、僕は慌ててベッドに置いてあったスマホを掴んだ。
『っおっはよー! ちゃんと起きてるかー?!』
ふわあっ、っと、とぉ?!
 スマホを耳にあてた瞬間、聞こえてきた実ちゃんの大音量ボイスに、僕はまた変な悲鳴を上げた。

 驚きのあまり体の体勢を崩して、どたーんと派手な音を立てて床に転がるオマケ付きで。

『お、おい、何かすげー音聞こえたぞ? 大丈夫か?』
な、何とか……っていうか、実ちゃん、朝からどうしたの?
『どうしたのってお前、昨日言っただろ? モーニングコールしてやるって
え? 

……あっ。

 今、思い出した。

 昨日のし、舌を入れられたキスからの、魔が差したオナニーっていう、僕にとっては刺激の強すぎる出来事が続いていたせいで、記憶の底に埋まってたけど。



 映画を見る前、夕飯を食べてる時にそんな話をしたんだ。

 毎朝、まぐろに起こしてもらってるって言ったら、


『んじゃ、俺がモーニングコールしてやろうか? モーニングコールも〈恋人〉っぽいしな』

って、実ちゃんが言い出したんだっけ。


『昨日のことなのに覚えてねーの? つーか、まだ寝ぼけてるんじゃね、お前』
そ、そんなことないよ!

電話が鳴る前に起きてたし、モーニングコールのことも、今思い出したから!

『やっぱ忘れてたんじゃねーか』
うっ。
『ま、いいけどさ。おはよ、小晴』
うん、おはよう、実ちゃん。

 ただの挨拶なのに、心の中がじわじわと温かくなるのを感じる。

 実ちゃんのモーニングコール、悪くないかもしれない。


『……』
実ちゃん?
『……っあ、わ、悪い。ちょっと、眠くて、一瞬寝てた』
だ、大丈夫?
『へーき。お前と違って、電車で寝過ごしたり、寝ぼけて電柱に頭ぶつけたりしねーもん』
そ、それ、中学とか高校の時の話でしょ?! 今はしてないってば!
『ほーん? で、ホントは?
……ご、ごくたまぁに……? してるかも?
『たまにどころか、しょっちゅうしてるだろ
そ、それはないからあ!
 慌てて否定する僕の耳元を、実ちゃんの楽しそうにケラケラ笑う声がくすぐる。
(実ちゃんの声って、こんなに心地よかったっけ。瞳さんや編集長みたいに落ち着きのある感じではないけど、明るくて、元気が貰える声だから、元々好きなんだけど……)
(あ、でも、キスの合間に漏れる声は結構低くて、色っぽいような……
あっ、やべ、もうじき電車来る』
えっ?!
ん? 何だよ、その反応。もしかして寂しいとか?』
うん。
『……マジ?』

 、ちがっ、ごめん! い、今のは、えっと、そのっ!


 咄嗟に肯定してしまったことに頬が熱くなるのを感じながら、僕は懸命に言い訳を絞り出そうとした。

 そんな僕の思考をぴたり、と止めたのは、電話口から聞こえた「ちゅっ」で。


『夜もまた電話してやるから、今はコレで我慢しとけ』


……う、うん。
『ん。じゃーな、お前も仕事頑張れよ』
うん……じゃあ、ね。

 ぷつり、ぷーぷー。

 無機質な音が響く中、僕はそっと自分の口元に手を伸ばした。

(ヤバい)
(唇がふにゃふにゃ緩んで、かなり締まりのない顔になっちゃってる……こんな顔で、仕事行ける気がしないんだけど……)
(何だろ、この気持ち。ぬるーいお湯に浸かってるような、心地いい感じがする)
 謎の心地よさに包まれながら、僕は支度を始めた。

 いつも通りの朝。なのに、不思議な温かさのせいで、目に映る全てが新鮮に感じていた。






あのな、魚谷。

職場じゃないから、率直に言うぞ。

へ?
お前、彼女できただろ。

 カフェ〈うのはな〉で、同僚の渡辺くんと共に遅めのランチを取っていた僕。

 唐揚げ丼を食べていた渡辺くんから飛び出した言葉に、僕はぽかん、としてたらこスパを運ぶ手を止めた。


、き、急に何? 何の話……。
隠すなよ、俺とお前の仲だろ? 俺には分かってるんだぜ。
え、ほ、ホントに何? 

僕、全っ然ピンと来ないんだけど、渡辺くん。

 うんうん、と首を縦に振りながら、ぽんぽんと僕の肩を叩く渡辺くん。


 何だろう、その『つかまり立ちしかできなかった赤ちゃんが、よちよち歩きできるようになって、それを微笑ましく見つめている』保護者的な眼差し。

 少なくとも、大人扱いされてないことは確かだ。

最近、お前がやけに機嫌いいなってのは感じてたんだけどさ。

ガチで笑えねえこの時期になっても、お前だけニコニコヘラヘラしてるからさ。

こりゃ絶対、いいことあったなって思ってたんだよ。

そ、そんなつもりはないよ。むしろ、ちょっと今回、焦ってるもん。

〆切迫ってるのにメイン記事の原稿が全然できてなくて、ライターさんとひいひい言いながら打ち合わせしてるし。

っていうか、渡辺くん、そのこと知ってるよね?

知ってる。そのライターがすげー〆切ブッチギリ魔だってこともな。

お前、すげー優しく対応してるらしいじゃん? すげーよな。

すごくこだわりが強くて、熱心な人だからねえ、僕はそこまで嫌じゃないんだ。

企画にもとても関心を寄せてくれているし、「生半可なものにはしたくない」って口癖のように言うし。

〆切まで数日あるから、あんまり追いつめさせるのもどうかなって思ってるだけだよ。

その台詞、毎回言ってるからな、そのライター。

いつもギリギリか〆切破るかなのに、やる気とプライドだけは異様にあるんだよな……。

あんま甘やかしすぎんなよ、魚谷。

大丈夫だよ。優しく言いつつも、ちゃんと〆切までにやりましょうねって釘を刺してるから。
どーだかなあ……。

つか、その顔だよ、その顔。

 ぴっと、箸で僕を指す渡辺くん。


へ?
全体的に緊張感がなさ過ぎるっつーか、別世界に常にいる感じがするっつーか……

とにかく、今のお前、初めて彼女できた時の俺と同じ空気を醸し出してんだよ。

な、何その例え?
やっぱさー、隠しているつもりでも、幸せってつい顔に出ちまうもんなんだよなあ。

特に魚谷は、普段から考えてることが顔に出るから、殊更分かりやすいよな。

か、顔に出てるの?!
出てる出てる。

「人生初の恋人ができて、僕、幸せです」って思い切り太文字の油性ペンで書いてあるから。

 ニヤニヤしながら渡辺くんがそんなことを言うから、僕は思わず自分の頬に手を当ててしまった。


いやいやいや、実ちゃんは〈嘘の恋人〉で、そうなったのも、まだ一ヶ月くらい前だし。その間、変わったことなんて……せいぜい、気絶せずにキスができるようになったことくらい、で……
(でも、確かに実ちゃんと恋人ごっこするの、最近は楽しく感じるんだよね。

キスするのも、全然嫌じゃなくて、むしろ――

そうか、そうか。あの魚谷もついに、恋愛感情を覚えたか。

 うんうん、と感慨深そうに頷く渡辺くん。

 「だから、どうして保護者みたいな眼差しで僕を見るのさ」、とツッコもうとした僕は、渡辺くんから飛び出た言葉にハッとなった。

恋愛、感情……?
誰かを好きになるのって、楽しいよな。ただ声聞くだけでも滅茶苦茶テンション上がるし、生きてる〜って感じがするんだよなあ。

あー、俺も、彼女に会いてーな。最近、電話もご無沙汰になっちまってるしなー。

 渡辺くんが感慨深そうにそう言いながら、スッと目を細める。目の前の僕ではない、もっと遠くを見つめているようだ。

 と、その彼の手元でスマホのバイブレーションが鳴り始めた。

、ヤベ。ちょい席外すわ。
う、うん、いってらっしゃい。

 慌ててお店を出て行く渡辺くんの背中を見送りながら、僕は彼の言葉をもう一度心の中で反芻した。


(恋愛感情……僕が、実ちゃんに?

 そう思った途端、耳元で実ちゃんのリップ音が聞こえた気がして、僕は咄嗟に耳を塞いでしまった。


(い、いやいやいやいいや、待って! 冷静になって僕っ!)

違うよ、これはじゃないって

これは……所謂、〈疑似恋愛感情〉……というヤツじゃないのかな。

ほら、僕らって、嘘の恋人だから。演じているうちに、感情移入して、本当の恋愛感情っぽいものを抱いちゃってるのかも。

あれだよ、恋愛映画を見てて、自分も登場人物の気持ちに移入しちゃうの。あれと同じだよ、多分!


そうだよ! 僕って影響されやすいもの。そこが持ち味だって、編集長も言ってたじゃないか!
そっか……恋ってこんな感じになるのか……。
、してるんですか。
うわあ?!

 唐突に横から話しかけられて、思わず立ち上がってしまった僕。

 恐る恐る横を向くと、木谷くんの真顔があった。


って、き、木谷くんかあ! 

ごめん、大声出しちゃって。

……。
 

木谷くん、どうかし……。

……してるんですか?
あ、き、聞こえちゃった……んだ……。
その……立ち聞きするつもりはなかったんですけど。

 ばつが悪そうに視線を逸らす木谷くん。

 でも、聞かれたと言っても、そんな大した話はしてなかったから、別にそんなに謝ることでもないと思うけど……木谷くん、真面目だからなあ。

ごめんね、うるさくしちゃって。


いえ、別にそんなに大きな声でもなかっ……って、そうじゃなくて!
ん?
先輩、好きな人がいるんですか?
ええっと……い、一応ね……。

 本物じゃなくて、疑似恋愛感情だから正確には違うんだけど、正直に言うとややこしいもんね。中途半端に話を聞かれてるっぽいし。

 とりあえず肯定すると、木谷くんがごく、と息を呑んだ。

 どうして木谷くんはそんな真剣な顔してるんだろう?

その好きな人って……。
う、うん?
……ど、どういう人、すか?
え、ど、どんなって……?
っあ、いや、別に! 変な意図はないっすから! 

ち、ちょっと気になっただけで、全然、根掘り葉掘り聞きたい訳じゃなくて!

 ぶんぶんと体全体を横に振って、大げさに否定する木谷くん。

 そんな、顔を真っ赤にするような質問ではないと思うんだけど、何だか微笑ましい反応に思えて、ぷ、と僕は少し吹き出した。



そうだなあ……キラキラしてる人、かな。

ちょっとワガママで、何かと振り回されちゃうけど……見ていて飽きないというか。

へ、へえ……。
基本的に僕のペースなんかお構いなしにずんずん進んでいく人なんだけど、時々立ち止まってこっちを振り返ってくれることがあるんだ。

それが……すごく、嬉しくてさ。

……あれ? 何でだろう、すごく恥ずかしくなってきた。当たり障りのないことしか言っていないはずなのに……)
 いつになく真剣に聞いてくれている木谷くんの眼差しに耐えられず、僕は思わず俯いてしまった。
……やっぱり、水野先輩じゃないですか。
へ? 今、何て言ったの?

 木谷くんの声がしたのは分かったけど、小さすぎてよく聞こえなかった。

 慌てて顔を上げた僕に、木谷くんは首を横に振った。


やっぱり、恋してるんですねって言ったんです。

先輩、さっきの人と話してる時、すげー幸せそうな顔、してたから。

し、幸せそう? そんな顔してた?
先輩、ホント嘘吐けない人ですよね。顔ですぐバレるから。
そ、そう……な、何か恥ずかしいなあ。
……はは。

 熱くなる頬を掻きながらはにかむと、つられたように木谷くんも笑った。


 あれ? 今の笑顔、何か少し寂しそうだったような。


 と思った途端、ぶおーん、と僕の手元が震えた。


うわっ、と。
仕事すか。
うん、午後に一緒に打ち合わせするライターさんから……。

 ずらずらと並んだ長文に、背筋がしゃきっと一気に伸びた。

 うわあ、また大分内容が変わっちゃってるし……そろそろブレないで書き切って欲しいんだけどなあ。


先輩、頑張って下さい……色々。
あ、ありがと……あれ?
 顔を上げてお礼を言おうと思ったら、既に木谷くんは背中を向けて遠ざかって行くところだった。

 







 その日、僕が帰宅したのは日付が変わった頃のことだった。
う〜、頭痛い……。

 へろへろの体を引きずって、即座にベッドの上に身を沈めた。


 夕飯もお風呂もまだだけど、もう今日はさっさと寝ちゃおうかな。

 ああ、でも、せめて今日の打ち合わせ内容はまとめておかないと……。


 よろよろ起き上がりつつ、スマホをタップした途端、陽気なメロディが流れ始めた。今朝聞いたばかりの着信音だ。

 咄嗟にタップして耳に当てると、

『お疲れ、起きてたか

おっ、お疲れ!

『声でけーな、オイ。どんだけ元気なんだよ、お前』

 電話口の向こうから実ちゃんの笑い声が、くすぐったい。油断してると、「ふふふ」って笑っちゃいそうになる。
元気ってこともないよ。実はさっき家に帰って来たところでさ。
マジ? それでそのテンションなのかよ』
疲れてたんだけどね、実ちゃんの声を聞いたら何か、元気でちゃった。
『……ふーん』
あれ? てっきり「だろー? 俺の声、癒されるだろ〜」とか言って、調子に乗るのかと思ったのに、意外と冷めた反応だな……)
実ちゃん、もしかしてすごく疲れてる?
、べ、別に? むしろ元気有り余ってる感じだぜ』
そう? 何かいつもより元気ない気がしたんだけど、僕の気のせい?
元気元気ちょー元気っ!

何せ今日、滅茶苦茶いい話が来たからさっ』

、何何?

『詳しくは言えねーんだけど、久しぶりに雑誌に大きく載る仕事、取れそうなんだ』

ほ、ほんとっ?! いつ発売するのっ?!

『いや、まだ撮影すら始まってねーし。それに、俺以外にも候補がいるから、正式に決まるまでは何とも言えねーんだけどさ。でも、大きなチャンスなのは確かだから』

っおめでと、実ちゃん! 良かったねえ!
『ばか、確定じゃねーって言ってんじゃんか』

 嬉しさを隠しきれないのか、実ちゃんの声、ちょっと上擦ってる。


 僕だってもちろん嬉しい。

 最近、実ちゃんのSNSにちょくちょく投稿があったから、活動的になってるなとは感じていたんだよね。と言っても、内容は仕事に関することじゃなくて、日々のちょっとしたことや、自撮りのオフショットとかだけ。瞳さんや碧人さんのような、モデル仲間が出てくることもない。

 でも、こんな大きな変化があったら、毎日のSNSチェックも更に楽しくなりそうだ。


 どんな衣装を着るのとか、コンセプトは何なのかとか、詳細は分からないけど、モデルの〈ハル〉としての実ちゃんを見られるって言う事実だけでテンションが上がってしまう。

 どうしよう、発売されたら十冊くらい買っちゃおうかな。さすがに引かれちゃうかな。

何かお祝いとかしたいねっ! 

ほら、モデルデビューが決まった時もしたでしょ? デビュー祝いのホームパーティー! あんな感じで!

『だから、まだ決まってねーってば、落ち着けよ
ご、ごめん。でも、何かこうわーっと盛り上がりたい気持ちでいっぱいで……。
『それなら、うってつけのイベントあんじゃん。

もうじき誕生日だろ?

誕生日……あっ。

そうか、おばあちゃん、もうすぐだったね。でも、まだ二週間もあるよ?

『ば、ばーちゃんもだけど! その一週間前に俺とお前の誕生日があるだろっ!』

……あ、そっか。

 実ちゃんの指摘に、僕は思わず壁に掛かったカレンダーを見た。


 性格が正反対の僕らだけど、誕生日は同じ日。

 実ちゃんが実家にいた頃は、この家で誕生日会をするのが恒例行事だった。

 二人揃って祝われるのは、何度体験しても嬉しかった。だから、誕生日当日になると、実ちゃんに呆れられるくらい「おめでとう実ちゃん!」って何度も言ったっけ。


 けど、ここ数年は電話やメールで「おめでとう」を言うだけだったから、僕らの誕生日は特別なものだと感じなくなっていた。

『珍しいな、お前が忘れてるなんて。いつもお前から電話やメールくれるくらい、まめまめしく祝ってくれるのにさ』
誕生日が抜け落ちるくらい、色々あったからねえ。

『確かにな〜。

ま、とにかくさ。今年はちゃんと誕生日しようぜ。ケーキ買うだけじゃあんまり特別感ないから、どこか気の利いた店に出かけるとかさ』


うーん、でも、うちのお母さん、ここのところ引きこもりだし、おばあちゃんも外食好きじゃないからどうかなあ。

実ちゃんのところもみんな忙しいでしょ?

『……こんの、ニブチンが』
えっ?
『だぁれが家族ぐるみで誕生日会しようって言ったんだよ。

俺とお前、二人で誕生日祝おうって言ってんの

二人? 何で?

『っは、はっきり言わねーと分かんねえのかよっ! 

〈恋人〉なんだから、誕生日に特別なデートしようって言ってんだよ!』


あ、ああ……そっか。
『何だよ、嫌なら断れよ』
いっ、嫌じゃないよ! 

嬉しいに決まってるっ! 誕生日に実ちゃんと二人きりでお祝いできるの、スゴく嬉しいからっ!

お、おぉ……そ、そうかそりゃ、良かった……


 実ちゃんと、二人きりの誕生日デート。

 その言葉を頭の中で反芻している内に、僕の頬はじわじわとカイロのように熱を帯びていく。


(気のせいかな。実ちゃんの様子がいつもと違うように感じる……)
(これも〈疑似恋愛感情〉のせい……? 恋に落ちると、相手のことが違って見えるって、ドラマや漫画のヒロインとかがよく言ってるし)
 あれこれ考えていたら、派手な咳払いと共に「とにかく!」と実ちゃんが声を張り上げた。
『やるって言ったからには、ちゃんとやるからな、誕生日デート。これもいい〈練習〉になるし』
う、うん、そうだね。

『なるべくなら当日にやりてーけど、お前、今、仕事忙しいって言ってたよな? それなら無理に当日じゃなくてもいいけど』

が、頑張って作るよ、時間! 

た、多分夜になっちゃうけど……でもっ、僕も、なるべくなら誕生日当日に実ちゃんと会いたいから……。

『……ん、そっか。そうだな』

 返って来た実ちゃんの声は、想像以上に優しくて。

 ぴしり、と僕が固まっている間に、実ちゃんはまた優しい声で「おやすみ」と電話越しのキスを残して通話を切った。


(恋愛感情って、すごい。何でも都合良く聞こえちゃう)
(渡辺くんの言う通り、すごく楽しいや)
……へへ。

 分かってる。僕は今、世界で一番気持ちの悪い笑顔をしてるってことを。

 でも、恥ずかしさは全然なくて、代わりにお腹いっぱい美味しいものを食べた時みたいに、気持ちが心地よさで満たされていた。


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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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