3-2 疑似恋愛感情
文字数 7,758文字
映画デートの翌朝。
僕は学習机横に貼ってある実ちゃんのポスターに、日課の挨拶をしていた。
……んだけど、今日はダメだ。
昨夜は大分一人で盛り上がっちゃったんだけど、それが今になってもの凄く恥ずかしい。
お陰で実ちゃんの顔を見るだけで昨日のことを思い出しちゃって、ポスターの彼に挨拶できない。せいぜい、チラチラ見るのが精一杯だ。
いや、それならそれで、ポスターに挨拶なんかしなきゃいいじゃん、って話なんだけど、一応日課だからやらないと、落ち着かないと言うか……。
※ミラオニとは?→『ミラクルオニ男ギャラクシー』の略。家庭用ゲーム機のソフト。ジャンルはRPGで、オニ男というキャラが色んなステージを旅したり、敵と戦ったりする。僕と実ちゃんが小学生くらいの頃に流行ったゲームだ。最近はゲーセンでもできる『アーケード版』が登場していて、僕たちのデートでも必ずといっていいほどやっているのだ!
驚きのあまり体の体勢を崩して、どたーんと派手な音を立てて床に転がるオマケ付きで。
今、思い出した。
昨日のし、舌を入れられたキスからの、魔が差したオナニーっていう、僕にとっては刺激の強すぎる出来事が続いていたせいで、記憶の底に埋まってたけど。
映画を見る前、夕飯を食べてる時にそんな話をしたんだ。
毎朝、まぐろに起こしてもらってるって言ったら、
って、実ちゃんが言い出したんだっけ。
ただの挨拶なのに、心の中がじわじわと温かくなるのを感じる。
実ちゃんのモーニングコール、悪くないかもしれない。
咄嗟に肯定してしまったことに頬が熱くなるのを感じながら、僕は懸命に言い訳を絞り出そうとした。
そんな僕の思考をぴたり、と止めたのは、電話口から聞こえた「ちゅっ」で。
『夜もまた電話してやるから、今はコレで我慢しとけ』
ぷつり、ぷーぷー。
無機質な音が響く中、僕はそっと自分の口元に手を伸ばした。
いつも通りの朝。なのに、不思議な温かさのせいで、目に映る全てが新鮮に感じていた。
カフェ〈うのはな〉で、同僚の渡辺くんと共に遅めのランチを取っていた僕。
唐揚げ丼を食べていた渡辺くんから飛び出した言葉に、僕はぽかん、としてたらこスパを運ぶ手を止めた。
うんうん、と首を縦に振りながら、ぽんぽんと僕の肩を叩く渡辺くん。
何だろう、その『つかまり立ちしかできなかった赤ちゃんが、よちよち歩きできるようになって、それを微笑ましく見つめている』保護者的な眼差し。
少なくとも、大人扱いされてないことは確かだ。
そ、そんなつもりはないよ。むしろ、ちょっと今回、焦ってるもん。
〆切迫ってるのにメイン記事の原稿が全然できてなくて、ライターさんとひいひい言いながら打ち合わせしてるし。
っていうか、渡辺くん、そのこと知ってるよね?
企画にもとても関心を寄せてくれているし、「生半可なものにはしたくない」って口癖のように言うし。
〆切まで数日あるから、あんまり追いつめさせるのもどうかなって思ってるだけだよ。
ぴっと、箸で僕を指す渡辺くん。
ニヤニヤしながら渡辺くんがそんなことを言うから、僕は思わず自分の頬に手を当ててしまった。
うんうん、と感慨深そうに頷く渡辺くん。
「だから、どうして保護者みたいな眼差しで僕を見るのさ」、とツッコもうとした僕は、渡辺くんから飛び出た言葉にハッとなった。
渡辺くんが感慨深そうにそう言いながら、スッと目を細める。目の前の僕ではない、もっと遠くを見つめているようだ。
と、その彼の手元でスマホのバイブレーションが鳴り始めた。
慌ててお店を出て行く渡辺くんの背中を見送りながら、僕は彼の言葉をもう一度心の中で反芻した。
そう思った途端、耳元で実ちゃんのリップ音が聞こえた気がして、僕は咄嗟に耳を塞いでしまった。
(違うよ、これは恋じゃないって。
これは……所謂、〈疑似恋愛感情〉……というヤツじゃないのかな。
ほら、僕らって、嘘の恋人だから。演じているうちに、感情移入して、本当の恋愛感情っぽいものを抱いちゃってるのかも。
あれだよ、恋愛映画を見てて、自分も登場人物の気持ちに移入しちゃうの。あれと同じだよ、多分!)
唐突に横から話しかけられて、思わず立ち上がってしまった僕。
恐る恐る横を向くと、木谷くんの真顔があった。
ばつが悪そうに視線を逸らす木谷くん。
でも、聞かれたと言っても、そんな大した話はしてなかったから、別にそんなに謝ることでもないと思うけど……木谷くん、真面目だからなあ。
本物じゃなくて、疑似恋愛感情だから正確には違うんだけど、正直に言うとややこしいもんね。中途半端に話を聞かれてるっぽいし。
とりあえず肯定すると、木谷くんがごく、と息を呑んだ。
どうして木谷くんはそんな真剣な顔してるんだろう?
ぶんぶんと体全体を横に振って、大げさに否定する木谷くん。
そんな、顔を真っ赤にするような質問ではないと思うんだけど、何だか微笑ましい反応に思えて、ぷ、と僕は少し吹き出した。
木谷くんの声がしたのは分かったけど、小さすぎてよく聞こえなかった。
慌てて顔を上げた僕に、木谷くんは首を横に振った。
熱くなる頬を掻きながらはにかむと、つられたように木谷くんも笑った。
あれ? 今の笑顔、何か少し寂しそうだったような。
と思った途端、ぶおーん、と僕の手元が震えた。
ずらずらと並んだ長文に、背筋がしゃきっと一気に伸びた。
うわあ、また大分内容が変わっちゃってるし……そろそろブレないで書き切って欲しいんだけどなあ。
へろへろの体を引きずって、即座にベッドの上に身を沈めた。
夕飯もお風呂もまだだけど、もう今日はさっさと寝ちゃおうかな。
ああ、でも、せめて今日の打ち合わせ内容はまとめておかないと……。
よろよろ起き上がりつつ、スマホをタップした途端、陽気なメロディが流れ始めた。今朝聞いたばかりの着信音だ。
咄嗟にタップして耳に当てると、
『お疲れ、起きてたか』
『声でけーな、オイ。どんだけ元気なんだよ、お前』
何せ今日、滅茶苦茶いい話が来たからさっ』
『詳しくは言えねーんだけど、久しぶりに雑誌に大きく載る仕事、取れそうなんだ』
『いや、まだ撮影すら始まってねーし。それに、俺以外にも候補がいるから、正式に決まるまでは何とも言えねーんだけどさ。でも、大きなチャンスなのは確かだから』
嬉しさを隠しきれないのか、実ちゃんの声、ちょっと上擦ってる。
僕だってもちろん嬉しい。
最近、実ちゃんのSNSにちょくちょく投稿があったから、活動的になってるなとは感じていたんだよね。と言っても、内容は仕事に関することじゃなくて、日々のちょっとしたことや、自撮りのオフショットとかだけ。瞳さんや碧人さんのような、モデル仲間が出てくることもない。
でも、こんな大きな変化があったら、毎日のSNSチェックも更に楽しくなりそうだ。
どんな衣装を着るのとか、コンセプトは何なのかとか、詳細は分からないけど、モデルの〈ハル〉としての実ちゃんを見られるって言う事実だけでテンションが上がってしまう。
どうしよう、発売されたら十冊くらい買っちゃおうかな。さすがに引かれちゃうかな。
もうじき誕生日だろ?』
『ば、ばーちゃんもだけど! その一週間前に俺とお前の誕生日があるだろっ!』
実ちゃんの指摘に、僕は思わず壁に掛かったカレンダーを見た。
性格が正反対の僕らだけど、誕生日は同じ日。
実ちゃんが実家にいた頃は、この家で誕生日会をするのが恒例行事だった。
二人揃って祝われるのは、何度体験しても嬉しかった。だから、誕生日当日になると、実ちゃんに呆れられるくらい「おめでとう実ちゃん!」って何度も言ったっけ。
けど、ここ数年は電話やメールで「おめでとう」を言うだけだったから、僕らの誕生日は特別なものだと感じなくなっていた。
『確かにな〜。
ま、とにかくさ。今年はちゃんと誕生日しようぜ。ケーキ買うだけじゃあんまり特別感ないから、どこか気の利いた店に出かけるとかさ』
俺とお前、二人で誕生日祝おうって言ってんの』
『っは、はっきり言わねーと分かんねえのかよっ!
〈恋人〉なんだから、誕生日に特別なデートしようって言ってんだよ!』
『お、おぉ……そ、そうか。そりゃ、良かった……な』
実ちゃんと、二人きりの誕生日デート。
その言葉を頭の中で反芻している内に、僕の頬はじわじわとカイロのように熱を帯びていく。
『なるべくなら当日にやりてーけど、お前、今、仕事忙しいって言ってたよな? それなら無理に当日じゃなくてもいいけど』
返って来た実ちゃんの声は、想像以上に優しくて。
ぴしり、と僕が固まっている間に、実ちゃんはまた優しい声で「おやすみ」と電話越しのキスを残して通話を切った。
分かってる。僕は今、世界で一番気持ちの悪い笑顔をしてるってことを。
でも、恥ずかしさは全然なくて、代わりにお腹いっぱい美味しいものを食べた時みたいに、気持ちが心地よさで満たされていた。