1-6 一生のお願いっ!
文字数 5,883文字
体の奥からゆっくりと息を吐き出した後、僕は静かにそう告げた。
落ち着いて言ったつもりだったけど、語尾が震えてしまった。語尾以外にも、カップに添えた僕の指先が、ぷるぷると小刻みに揺れている。
『嘘』というキーワードに、僕と実ちゃんはぽかん、と口を開けて見つめ合った。
再びやってきた沈黙は、熱くなった僕の頭の中を少しずつ冷やしていく。
いつの間にか僕たち、立ち上がってるし。しかも、激しい言葉の応酬のせいで、周囲のお客さんからつめたぁい視線が突き刺さってるし。
僕は身を縮こまらせつつ、実ちゃんに小声で尋ねた。
忙しない音を立てている自分の胸に手を当てながら、僕は腰を下ろす。
不機嫌そうにしながらも、実ちゃんもどかり、と座った。勢いが良すぎたせいか、パイプ椅子がぎぃ、と鈍い悲鳴を上げる。
実ちゃんの口から出たその名前に、僕は息を呑んだ。
如月瞳といえば、ついこの間僕が買った『サミダレボーイズ』の表紙を飾っていたモデル。テレビでも雑誌でも彼を見かけない日はないってくらい、メディアでは引っ張りだこの人気者だ。
そういえば、如月瞳は実ちゃんと同じ事務所所属で、デビューの時期も被っている。年も1つしか変わらなくて、デビュー当初は、『事務所公認ライバル!』なんて言われていたこともあったっけ。
でも、俺、昔から気持ちを隠していられねーじゃん? モデルの仕事、できなくなってもいい。とにかく、この気持ちをぶつけたいって思って、玉砕覚悟で告白したんだ。
そしたら、瞳も同じ気持ちだって言ってくれて。
その時のことを思い返しているのか、険しかった実ちゃんの表情がどんどんと緩んでいく。
自慢のカレシだけど、モデルとしてのプライドっつーのかな、変に比較されたくなくて、何となく言えなかったというか……。
その態度も発言も、ちょっとらしくないな。
若干、調子に乗ってる気がするけど、らしくない実ちゃんよりいいよね。
瞳がテレビに出るようになって、毎日忙しくなっちまったから、会える回数は減っちまったんだ。
でも、俺、それに不満を言ったことねーし。瞳も、会ってる間は俺のこと甘やかしてくれたし、キスもエッチもいっぱいしてくれた。
だん、と実ちゃんが右手拳でテーブルを揺らす。
今までご機嫌だったのに、また怒りのオーラを漂わせ始めてしまった実ちゃん。
彼の機嫌を下手に損ねまいと、僕は恐る恐る口を開いた。
わなわな、と全身を震わせる実ちゃんに、僕はぽかん、と口を開けるしかなかった。
浮気されていた上に、恋人から「別れろ」って言われるとか……今までに聞いた実ちゃんの失恋話の中で、一番酷いフられ方かも。
もちろん、どういうことか、瞳を問いつめた。ここで瞳が「冗談だ」とでも言えば、股間に1発蹴りを入れるだけで済まそうと思ってたんだけどな。
不意に眉を下げて視線を逸らした実ちゃんが、ぼそりと呟く。
でも、その気弱そうな姿は一瞬のことで、
瞳に手を出したあのヤローも「僕の方が瞳のこと好きだから」とか抜かしやがって! 「ちげーだろ! お前は後から来た部外者だろうが」ってツッコんだけど、スルーされたし! ムカつく!
何だよ、俺、バカみてーじゃんか!
興奮した実ちゃんがバシバシテーブルを叩く。そのあまりにも激しい音に、お客さんたちの冷ややかな視線が、またこっちに向けられてしまった。
何それ、初耳なんだけど。
ぽかん、とする僕に、実ちゃんはようやくテーブルを叩くのを止めた。今まで怒りでギラギラしていた大きな目が勢いを失って、うるうると潤み出す。
でも、目の前でイチャつかれて、泣きたくなったけど、それ以上にすっげえ腹が立って仕方なくて。
泣き出しそうな顔から一変して、にっと笑ってみせた実ちゃんに、僕は脱力してしまった。
さっきから喜怒哀楽がいつも以上に激しすぎる。フられたショックで情緒不安定になっちゃったのかな。
激しい怒りに包まれた実ちゃんの手によって、再びガタガタ揺らされる僕らのテーブル。半分以上残っていた僕のコーヒーがぴちゃぴちゃ跳ねていて、僕のシャツに染みが付きそうだ。ちょっと……いや、かなりハラハラする。
あそこまでバカにされて、泣きついて「ヨリを戻してくれ〜」なんて頼むなんざ、俺はぜってー嫌だ!
俺じゃなく、ただ若いだけが取り柄のクソ野郎を選んだことを死ぬ程後悔させてやるっ!
そんでもって、向こうから「やっぱり別れないでくれ」って土下座させてやるんだよっ!
再び真剣な眼差しで僕を見据える実ちゃん。
その視線にタジタジになりながら、僕はぎこちなく首を横に振った。
いい案だと思って口にした途端、実ちゃんの視線がたちまち険しいものに変わってしまった。
思い切り地雷を踏んでしまった。
ゲームだったら、ゲームオーバーのBGMが流れてるところだろう。
ああ、もう、これでまたテーブルが揺らされて、今度こそ僕のシャツを汚されちゃう……と思いきや、実ちゃんは両手を合わせて僕に深々と頭を下げてきた。
僕の脳裏に過るのは、小学生から高校生までの、似たような場面。
いやいや、ダメだよ、僕。今までみたいに「いいよ」って答えちゃ。
フリとはいえ、恋人になるんだよ?
ただでさえ、実ちゃんに近づくと『動悸』がするっていう謎の現象を抱えているんだ。たとえフリでも、これ以上、僕らの関係がおかしな形に歪むのは嫌だ。
でも、実ちゃんを諦めさせるにはどうしたらいいだろう。
冷静になろうよ、って言いたいけど、1度こうだって決めると、実ちゃん、僕の話全然聞かないんだよな……。
ああ、僕が迷っているうちに出ちゃった。実ちゃんの甘える攻撃。
「一生のお願い」。その言葉を口にする時、実ちゃんは目を潤ませて、甘えん坊全開で僕に擦り寄って来るのだ。
今まで、何度この表情に騙されて、「うん」と言ってしまったことだろう。
その度に、叔母さんから「実治を甘やかさないで」と怒られたり、「小晴は実治に甘すぎるんだよ。だから、あいつがあまちゃんになるんだろうが」と友達に呆れられたりする。
僕だって分かってるんだ。いくら憧れていて、大好きな従兄弟であっても、何でもかんでも許してしまうのは、実ちゃんのためにならないって。
ああ、僕もこのセリフ、何度言うつもりだろうか。
叔母さん、忠告してくれた親愛なる友人たち、ごめんなさい。
やっぱり僕は、この「お願い」攻撃に勝てそうにないです。
多分、一生。