番外編 恋を追いかけて
文字数 5,854文字
1月1日。
その日の家のポストを覗く時、俺は一瞬だけ緊張する。
フタを開け、中に収まっているのは、輪ゴムで纏められた年賀状。はやる気持ちを抑えて、1枚1枚宛名を確かめていく。
木谷新二様。
彼が書いた自分の宛名を見つけると、俺はようやく体の強張りが解けて、力んでいた眉間も緩やかになるのを感じるのだ。
毎年のことだけど、やっぱり今年も緊張する。
彼の文字は、まだお互いに高校生だった頃と変わらない。
穏やかで少し幼い雰囲気を残す彼の文字は1文字1文字はっきり大きく、意志の強そうなもの。豆粒みたいな俺の文字とは真逆の印象だ。
差出人欄に書かれたその人の名前は、魚谷小晴。俺の2つ年上だ。
住所は今年も変わりなく、密かに安堵する。
だけど、彼は今年社会人になる。来年の住所は、うんと遠くになってしまっているかもしれない。
たとえ、変わらなかったとしても、俺が彼の家を訪問する機会なんて、今のところゼロだが。
ゆっくりと裏面を返すと、やけにリアルな鶏と「謹賀新年」の馬鹿でかい文字。その下部に、数行のメッセージが今年も添えられていた。
『あけましておめでとう。お元気ですか?
今年、出版社の〈サミダレエンターテイメント編集部〉に就職します。
ついに夢のスタートラインに立ちます!
木谷くんの夢は、見つかった?』
食い入るように、先輩の綺麗な文字を見つめる。
サミダレエンターテイメント編集部。
それは俺が通う大学の、すぐ近くにある出版社の名前だった。
こんな出来すぎた偶然、本当にあるのか。
俺はぐに、と頬をつねった。
魚谷先輩とは、高校の時、図書委員に所属していたことがきっかけで知り合った。
図書委員の最初の顔合わせで、いきなり先輩って言われて(先輩曰く、後輩のオーラがなかったからだとか。だとしても、3年生の先輩の更に上なんていないのに、「先輩」って呼ぶのはおかしいんだけど)、呆気にとられながらも「魚谷先輩」と呼んだらぱっと顔を赤くして、
この時点では、俺の中で魚谷先輩はかなりのアホの子な先輩、という認識しかなかった。
その後、俺は図書室を訪れる度に、魚谷先輩が受付に必ずいることに気がついた。
当番は各クラスに2人ずついる図書委員で組み、日替わりで回しているので、毎日受付にいるなんてことはない――最初の顔合わせではそう説明されていたが、先輩以外の図書委員を俺はほとんど見たことがなかった。
俺や先輩が通っていた高校はお世辞にも頭のいい学校とは言えなくて、委員会の仕事はもちろん、勉強や部活動を真面目にこなす生徒の方が珍しい、と言われてしまうような不真面目の塊のような場所だったのだ。だから、委員会なんてあるようでないようなものだった。
そんな中で、何故先輩は毎日、しかも1人で図書委員の仕事をしてるんだろうか。
ある時、俺が尋ねてみると、
と、先輩は人の良さそうな顔でヘラヘラ笑って答えたのだった。
喧しい教室で宿題をやるより、図書室でやった方が静かで捗るから、という理由で俺も図書室へ通うようになると、否応無しに先輩とたくさん話すようになった。
その中で、先輩が本の山を崩して下敷きになってたり、ぼろい脚立に乗って青い顔をしながら上の本棚に手を伸ばしていたりする姿を見ているうちに、とてもじゃないけど傍観者じゃいられなくなって、気がついたら俺も毎日当番するようになっていた。
先輩とは色んな話をした。エロ同人誌で盛り上がる友達のこととか、駄菓子でよく食べたのはラムネだったとか、この学校の7不思議とか。
その中でも先輩の口からよく聞いたのは、自慢の従兄弟のことと、将来の夢のこと。
自慢の従兄弟については――敢えて語らない。
最初の内は「どんだけ身内フィルターが掛かってるんだろう」と苦笑いしながらも聞くことができたんだが、途中で考えるだけでしんどくなってしまった。色々。それは今でもそうなので、割愛する。
もう1つの将来の夢については、俺の中で光り輝く思い出として刻まれている。
先輩の母親は小説家で、その傍でサポートする編集者の人にずっと憧れていること。自分も、彼のような編集者になりたいこと。
それが、先輩にとって、なくてはならない程大事な夢なんだと。
頬を紅潮させて笑顔で話す先輩は、眩しかった。
同時に思ったんだ。俺には、先輩みたいな「夢」も「特別な好き」も何もないって。
根拠も何もない。
ただひたすらに前向きで、笑顔が眩しくて。
俺は、ただずっと、その笑顔を見ていたくて。
俺は、いつしか願うようになっていた。
この図書室の空間に、俺と先輩以外、誰も入って来て欲しくない。
俺だけが、先輩の眩しい姿を見ていたいんだ、と。
初めて「恋」したと自覚した相手が男の先輩だということに、少しだけ戸惑いはあった。
何かの間違いじゃないか、確かめないと……って通っている内に、ああ、これは誤摩化しようもなく、「恋」だと自分で認められるようになっていった。
風変わりで、年上っぽさがなくて。
でも真面目で優しくて、可愛い。ずっと、側で他愛ない話をしているだけで満たされる。
俺の高校最初の1年は、幸せだった。今戻れるなら、あの図書室での瞬間に戻りたいと思う。
けれど、いつまでもそんな幸せは続かなくて、翌年の春、先輩は卒業した。
なけなしの勇気を振り絞って連絡先を聞いたが、先輩のその1言で、結局、年賀状を送るための住所交換しかできなかった。
家の電話を教えてもらったけど、何の用事もなく電話を掛ける度胸は俺にはなかった。
あれから5年。俺も高校を卒業して、大学2年になっていた。
先輩と同じ大学を受けようとも思ったが、さすがにそれは気持ち悪いだろうと思い留まった。……んだが、ほんの少しだけ、後悔している。
もし、同じ大学だったら、高校の時のように毎日会えていたかもしれないと、甘い幻想を抱いてしまう。
夢は見つかった?
図書室で先輩が言ったことは、こうして年賀状にも綴られている。
大学生になっても、俺はまだ何も見つけられていない。
夢も、好きなものも何も……。
……いや、ひとつだけ、好きなものがある。ずっと、思い続けている人がいる。
今は、年賀状越しでしか言葉を交わせなくなった人。
その人が、自分のすぐ近くに現れるかもしれない。
その可能性を知った時、俺は分かってしまったんだ。
ああ、俺はまだ先輩に恋をしていて、諦められないんだ、と。
そして、春。
俺は大学3年になって、魚谷先輩は〈サミダレエンターテイメント編集部〉へ就職した。
大学に向かう道すがら、編集部のあるビルを横切る度に俺はちらちらと出入り口に視線を寄せてしまう癖がついた。
年賀状の文字でしか知ることのできなかった先輩に、会えるかもしれない。
そんな、仄かな期待を胸に抱いて。
けど、現実はそんなに甘くはなく、桜が散り終えて、ゴールデンウィークが終わった頃になっても、先輩を見かけることはなかった。
当たり前だ、ずっと出入り口で張っているならともかく、通学時間だけで偶然遭遇するなんて、そんな漫画みたいなことは安易に起こらない。
本当に何としてでも会いたいなら、今のままじゃダメだ。
かといって、編集部に乗り込む訳にも行かないし。
いっそのこと漫画家志望を装って、漫画を出版社に持ち込んで何とかして会わせてもらうとか……いや、先輩が漫画を担当しているとは限らないし、そもそも美術2の俺に漫画なんて描ける訳がない。
あれこれ考えながら、今日もビルに仄かな期待を寄せて視線を送っていたその時だった。
編集部のビルの右隣に、緑色の塗装が施された小さな建物を見つけた。
〈カフェうのはな〉という名前の、新しくオープンした喫茶店だった。
こんなすぐ傍に喫茶店ができたのか。
何気なく近づいた俺の目に留まったのは、『アルバイト募集』のチラシ。
その瞬間、俺の頭に電流が走った。
ここなら、編集部関係の人も食事をとりにやってくるんじゃないか。駅前にもいくつか食事処はあるが、ここならビルの真横だし、便利なはず。
たとえ先輩がここに来なくても、アルバイトとして働ければ、ビルの出入り口を堂々と見張ることができるんじゃ。
そう思った俺は、即座に行動した。
友達に誘われてやっていたスポーツジムのバイトを辞め、〈カフェうのはな〉の店員として働き始めたのだった。
とにかく、先輩に遭遇できるチャンスはできるだけたくさん作りたかったから、「週5で働けます!」とアピールしたのだが、「遊びもしっかりしなきゃダメ!」という店長に怒られて、週3勤務からのスタートになった。
それならばせめて、仕事を覚えるという口実で、休みの日に客としてカフェに通った。
モーニング、ランチ、スイーツ、ディナー。色んな時間帯に通ったけど、1番通いやすかったのはモーニングの時間だ。
朝の慌ただしい空気を緩和させるような和風のBGMと、ゆったりとした席。漫画からノウハウ本まで、『料理』をテーマとした本が立ち並ぶ本棚。美味すぎてリピートしてしまうフレンチトースト。今まで飲んだこともなかったのに、飲む習慣がついたコーヒー。何かと、「学生なんだから遊びなさい!」とおせっかいを焼いてくれる店長の存在。
気がついたら、俺は〈うのはな〉の空間や提供されるメシのファンになっていた。休日もカフェに通っていたお陰で仕事の覚えも早く、常連客の顔も何となくだが覚えられるようになっていった。
先輩には相変わらず再会できない。でも、〈うのはな〉にいると、不思議とあの高校の図書室と思い起こさせるのだ。
この場所にいるとホッとする。この場所が、自分の居場所だとはっきりと認識できる。
先輩が卒業してから、そんな風に思う場所なんてどこにもなかったのに。
先輩に会えていないけど、ここで働くことを決めて、良かった。
そんなことを思うようにまでなっていた。
そうこうしている内に、季節は秋になっていた。
仕事外でも通い続けていたせいで〈うのはな〉を店長の次に知り尽くした、と店長本人から認められたのと、俺の希望もあって、週5働けることになった。
その日の午後。ついに、俺はその時に遭遇することになる。
ランチタイム終了まで30分を切った〈うのはな〉に、駆け込んで来たサラリーマンが1人いた。
彼は入ってくるなり素っ転んで、持っていた紙の束を綺麗にぶちまけてしまった。
っご、ごごごごめんなさいっ!
俺がしゃがんで紙を集め始めると、サラリーマンは頭をぺこぺこさせながら同じように紙を集めて。
何とか拾い集めたそれを俺が差し出すと、ずっと俯いていた彼が顔を上げた。
折角集めた紙の束を、ぶちまけてしまいそうになった。
だって、顔を上げたその人は忘れもしない、魚谷先輩だったからだ。
記憶と違って制服じゃなくてスーツ姿だし、何か変なネクタイもしているけど……顔も体格も全く変わっていない。
程なくして、先輩が目をぱちくりとさせて俺の名前を呼んだ。
ただそれだけなのに、ずっと眠っていた恋心が疼き出し、時の流れが急速に巻き戻るような――まるで、高校1年生に戻ったかのような錯覚を覚えた。
まるで子供みたいにはしゃぐ先輩。その勢いを殺いだのは、彼の腹部から鳴り響いた音だった。
その途端、か~~っと真っ赤になって肩をすぼめた先輩に、俺は思い切り噴き出した。
弾けるような笑顔を浮かべた先輩に、俺もつられるように笑った。