3-9 おはよう
文字数 3,206文字
ちかちか、と、不意に見えたのは柔らかな煌めき。
それを確かめようと、瞼を持ち上げた途端、飛び込んで来た鋭い光に「うう」と微かに呻いてしまった。数回、目をぱちぱちさせて、その光が窓から差し込む太陽のものだと気づく。
呟きと共に、大きな欠伸を零しながら、僕はゆっくり起き上がった。
右隣には、僕のグレーのジャージ。脱ぎ捨てられたそれにそっと触れると、微かなぬくもりが残ってる。
僕が緩く首を傾げた途端、脳裏に昨日の出来事が一気に浮かび上がった。
お風呂で色々……うん、色々とされて、肉満載の夕食を食べて、ミラオニのゲームをして、ベッドでたくさん、甘やかしてもらって……。
と詳細に思い出すにつれ、ジャージに触れていた僕の指先に力が籠もる。
それに比例するように、頬もじんじんと熱くなって、どきどき、と聞き慣れた音が僕の中で盛大に鳴り始めた。
でも、戸惑いはない。
実ちゃんのキスを受け止められた時みたいに、唇の端がゆるりと緩むのを感じた。
不意に脳裏を掠めたのは、渡辺くんと木谷くんの言葉。
あの時は軽い気持ちで聞いていたその二人の言葉が、僕の心にすとん、と落ちてきた。
ぼそ、と呟くと、胸のドキドキがますます高まったように感じた。
でも、僕の中で高鳴るドキドキは嫌な感じがしなくて、心地いいとさえ思えてくる。
そのリズムが「僕はこんなにも実ちゃんのことが好きなんだ」と教えてくれているような気がした。
リズムの速度が上がる胸元を押さえながら、僕は視線を巡らせる。
テレビの前に放置されたゲーム機、寄り添うように並ぶ二人分のマグカップ、僕の通勤用のリュック――とそこで目を留めた僕は、あることを思い出し、慌ててベッドから抜け出した。
リュックの奥にしまっていた、紫陽花色の包み。誕生日に渡せなかったプレゼントだ。
呪文のような独り言を零しながら、僕はプレゼントを手に立ち上がった。
身支度を整えて、1階へ降りると、階段の傍で待ち構えていたまぐろににゃあ、と挨拶された。
顎を擦ってあげながら僕がそう言うと、まぐろはするり、と僕の手から抜け出し、階段を上って行ってしまった。
あれ、てっきり「アタイへの供物(朝食)を早く寄越しな!」って飛びついてくるかと思ったのに。
もしかして、実ちゃんがもうあげてくれたのかな。
そんなことを考えつつ、僕は居間の戸に目をやった。
まぐろ1匹分開いた隙間からは、トーストの焼ける匂いが漂っている。
戸の前ですぅはぁ、と呼吸を整えている時、実ちゃんの声が聞こえてきた。
一瞬どきりとしつつ、居間の戸をそっと開けると、実ちゃんの背中が見えた。
その右耳にはスマホが押し当てられている。
『瞳』。
その言葉が実ちゃんの口から出た途端、僕は居間に踏み込んでいた右足を引っ込め、戸の向こう側に身を潜めた。
別に実ちゃんに見つかった訳でもないし、見つかっても何の支障もないはずなのに隠れる理由もない。
だけど、僕の体はそこに縫い付けられたみたいに動かない。
僕の耳だけが、実ちゃんの声を聞き逃すまいと感覚を尖らせている。
俺は、あいつのことが本気で好きだったんだ。遊びで付き合える訳、ねえ。
普段よりも低く、どこか苦しげな実ちゃんの声。こんな実ちゃんの声を聞くのは、瞳さんとの昔話を聞いた日以来のことだった。
あれから、実ちゃんの口から瞳さんの名前が挙がることはなかった。
というか、あの日以降、僕が瞳さんと実ちゃんの関係を思い出すことはなかった。
プレゼントを抱きしめながら、その場にしゃがみ込む僕。
すると、そのタイミングを見計らったかのように、実ちゃんの昂った声が聞こえてきた。
……っはあ?! そんなこと、信じられるか、俺を振ったのは瞳の方だろ!
あいつがまだ俺のこと好きだとか、そんなこと絶対信じねえから!
苛立ちからか、一瞬ボリュームの上がった実ちゃんの声。
すぐに小さくなったのは、奥の書斎に籠もっているお母さんの存在を気にしてだろうか。
それとも、居間の戸の後ろで身を潜める僕に気づいてるのか。
お前が何とかしろよ。俺は……俺が出る幕なんかねえよ。
少しの間を置いて、ぽと、と居間の畳に何か落ちる音がした。
じっとして耳を澄ませてみるけど、実ちゃんが歩き出す様子はない。
プレゼントを握りしめ、僕はそっと居間を覗き込む。
そこにあったのは、その場に踞っている実ちゃんの丸い背中。後ろで括った赤毛の髪の束が、ぷるぷる、と微かに震えている。
漏れ聞こえた実ちゃんの声は、嗚咽を我慢している子供みたいで。
実ちゃんがすん、と鼻を鳴らしたかと思うと、ぱたぱた、と畳に何かが零れ落ちる音が聞こえた。
その瞬間、僕は背中を向け、ゆっくりと立ち上がった。
駆け足で階段を上って自室に駆け込みたい気持ちだけど、そんなことをすれば、聞き耳を立てていたことがバレる。
僕はぐっと唇を噛んで階段を一段だけ上がり、わざとその場でどたばたと音を立てた。
わざとらしく慌てた声で叫んで、居間ではなく、トイレへ駆け込む。
トイレのドアを閉める瞬間、居間からぱたぱたと慌てたような物音がしたけど、聞かなかったことにする。
そう、僕は何も聞いていない。
心の中でそう唱えながら、僕は数を数え始めた。
百、数え終えたら、トイレを出よう。そして、何事もなかったように挨拶しよう。
おはよう、って。