3-9 おはよう

文字数 3,206文字

 ちかちか、と、不意に見えたのは柔らかな煌めき。

 それを確かめようと、瞼を持ち上げた途端、飛び込んで来た鋭い光に「うう」と微かに呻いてしまった。数回、目をぱちぱちさせて、その光が窓から差し込む太陽のものだと気づく。


……あさ……。

 呟きと共に、大きな欠伸を零しながら、僕はゆっくり起き上がった。

 右隣には、僕のグレーのジャージ。脱ぎ捨てられたそれにそっと触れると、微かなぬくもりが残ってる。

 僕が緩く首を傾げた途端、脳裏に昨日の出来事が一気に浮かび上がった。


(そうだ、昨日実ちゃんが泊まりに来て、それで……)

 お風呂で色々……うん、色々とされて、肉満載の夕食を食べて、ミラオニのゲームをして、ベッドでたくさん、甘やかしてもらって……。


 と詳細に思い出すにつれ、ジャージに触れていた僕の指先に力が籠もる。

 それに比例するように、頬もじんじんと熱くなって、どきどき、と聞き慣れた音が僕の中で盛大に鳴り始めた。


 でも、戸惑いはない。

 実ちゃんのキスを受け止められた時みたいに、唇の端がゆるりと緩むのを感じた。

実ちゃんが『恋人』で良かった。

そういう風に思っちゃうのも、『疑似恋愛感情』のせい、なのかな)

(この気持ちが『疑似的なもの』……。

そう思うのは何だか、ちょっと腑に落ちない気がするんだよね……)

(実ちゃんのことを『恋人』として考えてる時、嬉しくて、楽しくて……)
誰かを好きになるのって、楽しいよな。

ただ声聞くだけでも滅茶苦茶テンション上がるし、生きてる〜って感じがするんだよなあ。

やっぱり、恋してるんですねって言ったんです。

先輩、さっきの人と話してる時、すげー幸せそうな顔、してたから。

 不意に脳裏を掠めたのは、渡辺くんと木谷くんの言葉。


 あの時は軽い気持ちで聞いていたその二人の言葉が、僕の心にすとん、と落ちてきた。




(……そっか)
(『疑似恋愛感情』なんかじゃない。

僕は……本当に実ちゃんに恋をしているんだ。

…………たぶん

……本当に、好き……。

 ぼそ、と呟くと、胸のドキドキがますます高まったように感じた。

 でも、僕の中で高鳴るドキドキは嫌な感じがしなくて、心地いいとさえ思えてくる。

 そのリズムが「僕はこんなにも実ちゃんのことが好きなんだ」と教えてくれているような気がした。

ど、どうしよう……?
恋をしてるんだって、実ちゃんに言うべき……。

いやいやいやっ、待って待って、それって告白じゃん?!

 リズムの速度が上がる胸元を押さえながら、僕は視線を巡らせる。

 テレビの前に放置されたゲーム機、寄り添うように並ぶ二人分のマグカップ、僕の通勤用のリュック――とそこで目を留めた僕は、あることを思い出し、慌ててベッドから抜け出した。


 リュックの奥にしまっていた、紫陽花色の包み。誕生日に渡せなかったプレゼントだ。

と、とりあえず、これ……渡そうか。

うん、とりあえずね。その後のことは置いておこう。うん。

 呪文のような独り言を零しながら、僕はプレゼントを手に立ち上がった。






 身支度を整えて、1階へ降りると、階段の傍で待ち構えていたまぐろににゃあ、と挨拶された。

おはよう、まぐろ。朝ご飯、用意するね。

 顎を擦ってあげながら僕がそう言うと、まぐろはするり、と僕の手から抜け出し、階段を上って行ってしまった。


 あれ、てっきり「アタイへの供物(朝食)を早く寄越しな!」って飛びついてくるかと思ったのに。

 もしかして、実ちゃんがもうあげてくれたのかな。


 そんなことを考えつつ、僕は居間の戸に目をやった。

 まぐろ1匹分開いた隙間からは、トーストの焼ける匂いが漂っている。


(実ちゃん、朝ご飯も作ってくれてるんだ……昨日の夕飯もそうだったけど、実ちゃんが僕のために作ってくれることなんて、今までなかったのに)
(『恋人』設定を貫いてくれてるからだろうけど……それでも嬉しいな。

好きな人だから尚更……)

って、ダメ! すっごく緊張するから、『好き』って意識しちゃダメだ。

落ち着いて、深呼吸して……そう、いつも通りに

 戸の前ですぅはぁ、と呼吸を整えている時、実ちゃんの声が聞こえてきた。


……だから、何が言いたいんだよ。回りくどいこと言ってねえで、はっきり言いやがれ。
(ん?)

 一瞬どきりとしつつ、居間の戸をそっと開けると、実ちゃんの背中が見えた。

 その右耳にはスマホが押し当てられている。


……それがどうしたんだよ。
(誰と電話してるんだろ。不機嫌そうだけど……)
違う。偶然、瞳が事務所にいただけだ。俺があいつを呼んだ訳じゃない。
っ!

 『瞳』。

 その言葉が実ちゃんの口から出た途端、僕は居間に踏み込んでいた右足を引っ込め、戸の向こう側に身を潜めた。

 別に実ちゃんに見つかった訳でもないし、見つかっても何の支障もないはずなのに隠れる理由もない。

 だけど、僕の体はそこに縫い付けられたみたいに動かない。

 僕の耳だけが、実ちゃんの声を聞き逃すまいと感覚を尖らせている。


……決まってんだろ。俺と瞳はもうそういう関係じゃない。あいつに対する未練もない。
(瞳さん……本人じゃないみたい、だけど……一体誰と話してるんだろ)
……ふざけんな。遊びじゃねえよ。

俺は、あいつのことが本気で好きだったんだ。遊びで付き合える訳、ねえ。

 普段よりも低く、どこか苦しげな実ちゃんの声。こんな実ちゃんの声を聞くのは、瞳さんとの昔話を聞いた日以来のことだった。



 あれから、実ちゃんの口から瞳さんの名前が挙がることはなかった。

 というか、あの日以降、僕が瞳さんと実ちゃんの関係を思い出すことはなかった。


(……いや、違う。思い出したく、なかった……のかも)

 プレゼントを抱きしめながら、その場にしゃがみ込む僕。

 すると、そのタイミングを見計らったかのように、実ちゃんの昂った声が聞こえてきた。


……っはあ?! そんなこと、信じられるか、俺を振ったのは瞳の方だろ!

 あいつがまだ俺のこと好きだとか、そんなこと絶対信じねえから!

(えっ)
今更そんなこと言われたって……俺にどうしろってんだよ……っ!

 苛立ちからか、一瞬ボリュームの上がった実ちゃんの声。

 すぐに小さくなったのは、奥の書斎に籠もっているお母さんの存在を気にしてだろうか。

 それとも、居間の戸の後ろで身を潜める僕に気づいてるのか。


……瞳の恋人はお前だけだろ。

お前が何とかしろよ。俺は……俺が出る幕なんかねえよ。

 少しの間を置いて、ぽと、と居間の畳に何か落ちる音がした。

 じっとして耳を澄ませてみるけど、実ちゃんが歩き出す様子はない。


 プレゼントを握りしめ、僕はそっと居間を覗き込む。

 そこにあったのは、その場に踞っている実ちゃんの丸い背中。後ろで括った赤毛の髪の束が、ぷるぷる、と微かに震えている。


……ふざけんな……。

 漏れ聞こえた実ちゃんの声は、嗚咽を我慢している子供みたいで。


もう、終わったことなんだ……なのに、今更……蒸し返させんなよ……。
(……実ちゃん)
く、そ……っ!

 実ちゃんがすん、と鼻を鳴らしたかと思うと、ぱたぱた、と畳に何かが零れ落ちる音が聞こえた。


 その瞬間、僕は背中を向け、ゆっくりと立ち上がった。

 駆け足で階段を上って自室に駆け込みたい気持ちだけど、そんなことをすれば、聞き耳を立てていたことがバレる。

 僕はぐっと唇を噛んで階段を一段だけ上がり、わざとその場でどたばたと音を立てた。


っと、トイレトイレ〜!!

 わざとらしく慌てた声で叫んで、居間ではなく、トイレへ駆け込む。

 トイレのドアを閉める瞬間、居間からぱたぱたと慌てたような物音がしたけど、聞かなかったことにする。

 そう、僕は何も聞いていない。


(……何も、聞いていないし……僕は……)
(僕は何も気づいてなんか、いない)

 心の中でそう唱えながら、僕は数を数え始めた。

 百、数え終えたら、トイレを出よう。そして、何事もなかったように挨拶しよう。


 おはよう、って。


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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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