2-8 初めてのワガママ
文字数 4,111文字
二歩前を行っていた実ちゃんが、不意に振り返る。
何か言いたげなその視線に僕も思わず立ち止まったけど、いつもみたいに心臓が飛び跳ねることはなかった。
むしろ、手でぎゅうって握られてるみたいに、胸の奥が痛い。
ばつの悪そうな顔で頬を掻く実ちゃん。
その顔を見たら、僕はちょっとだけ和んだ。
俺と瞳はもう別れたんだ。
だからもう、瞳の前で恋人のフリはすんな。むしろ、瞳は気づいてると思ってるんだけどな、お前と俺がマジで付き合ってないってことくらい。カップルっぽく見えないしな、当然だろうけど。
今日、きっぱり言っちまえば良かったな。
あれは嘘だったって――。
僕は両手に拳を作り、じっと実ちゃんを見つめる。
実ちゃんは目を見開いてしばらく固まっていたけど、やがてふっと短く息を吐いた。
多分一人だったら、あいつらのラブラブな空気にいたたまれなくなって、その場から逃げてたかもしれねえ。
でも、お前がいたから……瞳に「未練なんてない」ってはっきり言えたんだと思う。
だから、ありがとな。すげースッキリしたから、俺。
大好きな実ちゃんの笑顔なのに、見てるのが辛い。
実ちゃんがどんどん僕から離れて行ってしまう気がして、僕の方が泣きたくなる。
実ちゃんが勢い良く踵を返す。
だけど一瞬、僕は実ちゃんの横顔が微かに歪んでいるのを見てしまった。
その途端、僕は実ちゃんの背中に向かって駆け出していて。
驚いた実ちゃんの顔が、僕の目と鼻の先にあった。
衝動的に掴んでしまった、実ちゃんの右手。その指先から伝染したみたいに、僕の体がじわじわと熱を帯び始める。
全力でダッシュしたみたいに心臓がどくどくうるさい。
頭がくらくらするし、呼吸も荒い。
でも、僕はそんな自分の反応を無視して、口を開いた。
僕は首を横にぶんぶんと振って、掴んだ実ちゃんの右手に更に力を込めた。
これ以上、実ちゃんが遠ざかっていかないように。
実ちゃんのその言葉に、僕はそっと力を抜いた。
実ちゃんの右手を掴む僕の指先は、かたかた震えてる。
でも、落ち着いて伝えなきゃ。
ずいっと顔を寄せた僕に、驚いた実ちゃんが一歩後ろに下がる。
初恋すらまだの僕には未知の世界だけど、実ちゃんが何でも話してくれたから、一緒に恋をしているような気持ちになれた。
今までの実ちゃんの恋人たち以上に、僕は実ちゃんのこと、見てきたんだ。
何でも、知っている自信があったんだ……。
胸の内からわき上がる思いを吐き出せば吐き出す程、僕の体温が上昇する。
耳の裏から通り抜ける夜風は冷たいけど、僕の内側の熱を冷ますにはまだまだ足りない。
瞳さんから「お前の知らないハルのこと、教えてやる」って言われた時、体が震えるくらい動揺しちゃって……。
恋人の目線で見る実ちゃんを、実ちゃんの一方的な話しか聞いていない僕は知らないって、気づかされたんだ。
でも、僕は……知りたかったんだ。
瞳さんの目に映っていた『恋人としての実ちゃん』のこと。
瞳さんから聞いた『恋人としての実ちゃん』の話、あまりにも刺激が強すぎて、すごくドキドキしたんだ。
同時に心の中がモヤモヤして……僕は、実ちゃんのことを知ってるつもりで、よく知らなかったのかな、なんて考えちゃったりして。
悲し……ううん、悔しかった。
悔しい。そう口に出して、僕ははっと気がつく。
インタビューの最中、態度を豹変させた瞳さんの話を聞いた時や、一方的な約束を言って去っていた背中を見送った時。僕の中で、熱く滾っていた感情がある。
あの時はよく分からなかったけど、今ようやく分かった。
あれは悔しさだったんだ。
だから、僕、ちゃんと知りたいんだ。
実ちゃんのこと……瞳さんしか知らない実ちゃんのこと。
次、瞳さんに会ったら、僕は貴方以上に実ちゃんのことを知ってるんだって、自信持って言える自分になりたい。
恋人は嘘でも、そのことだけは本当にしたいんだ。
不意に視線を逸らしてしまった実ちゃんに、僕は不安を覚えて、また彼の右手をぎゅっと握ってしまう。
でも、実ちゃんの口から出て来たのは、「痛い」じゃなくて。
今度はさっきとうってかわって、明るい笑顔で一人頷いている実ちゃん。
口元が引きつっているように見えるのは、気のせいかな。
僕が掴んでいた実ちゃんの手がするり、と抜け出した。
かと思ったら、今度は僕の手を掴んで、指を絡ませてきた。
それだけで、相変わらずびくりと震えてしまう僕。
でも、今日はそんなことでいちいち怖じ気付いていられない。
きゅっと唇を噛むと、実ちゃんの右腕にぎゅっと抱きついた。
ぐっと体に力が籠もる僕に、実ちゃんは苦笑を浮かべながら頭をぽんぽん、と撫でてくれた。