碧人番外編 〈ウラ・イミテーション〉4.いらだち
文字数 3,534文字
瞼を持ち上げると、オフホワイトの天井が見えた。
ゆっくりと体を起こせば、するり、と肩から布団が滑り落ちる。下着すら身に着けていない自分の体は、相変わらず面白みのない薄さと味気ない白さで構成されている。
今までと違うとすれば、乳首のすぐそばの肌や太ももの内側に付けられたキスマーク。フィクションでは色めいたものとして表現されがちだけど、実際つけられると痛々しさにしかない。
耳を澄ませば、シャワーの音が聞こえる。その密やかな音を聞きながら、僕が思い浮かべたのは昨晩の忌々しい記憶だった。
ホテルを後にし、そのまま解散……としたかったところだけど、今日は2人とも同じスタジオで撮影の仕事が入っていた。
緑色のブレザー姿の瞳がカメラに向かって柔らかな笑顔を浮かべている。映画専門誌に載せるピンナップらしい。
仕事柄要求されている表情と立ち振る舞いとは言え、とてもじゃないけど、明け方までズッコンバッコンやってた人物と同一とは思えない。
スタッフたちが瞳に見惚れているのを冷ややかに見つめ、僕はホテルのベッドから燻っている怒りを持て余していた。
あの茶番から1週間が経った。
瞳をベッドで挑発した時は、まさかそれ以降毎晩セックス漬けになるなんて思わなかった。
最初のうちは新鮮味もあったし、僕も望んでしたことだから良かったけど、今はもう、一方的な暴力を受けてる気分だ。だから、昨日は付き合え切れなくなって、ついに「嫌だ」って答えたんだけど、半ば強引に連れて来られてやられたんだよね。抵抗も面倒だったから付き合ったけどさ。
瞳は優しいセックスなんてそもそも知らないんだろうな、と思う。
そう考えると、僕を初めて抱こうとした時、一体どう抱くつもりだったのか、ほんの少しだけ興味が……いや、無理だろうな。優しくするフリをして、すぐに我慢が出来なくなってあの獣みたいなセックスに発展してただろう。
ハルの時も同じノリだったんだろう。だとしたら、ハルはかなりのドMだ。あの瞳と1年以上付き合えるなんて、尊敬してしまいそうになる。
聞き覚えのある声に振り向くと、目をまん丸に見開いたハルが立っていた。
仕事、にしてはラフな格好だ。紙袋を抱えているから、事務所のお使いにでも来たんだろうか。彼は本当にそういう事務仕事ばかりしているから。
会うのは、あの茶番劇以来。
挨拶の1つでもしようと口を開いたら、苦虫を噛み潰したような顔で僕を睨んで、踵を返してしまった。
この前の時のような勢いはなくて、随分しおらしくなったものだ。
それくらい、ハルは瞳のことを本気で思っていたんだ。あの、ろくでもないセックスをする瞳のことが。
つばを飛ばす勢いで食って掛かってくるハルを見て、僕はうわ、と思わず呟いた。
そうだ、ハルはこういう奴だった。あの乱暴なセックスに付き合えるハルのこと尊敬できるかもって思ってたけど、前言撤回しよう。
盛大な舌打ちと共に踵を返したハルは、派手な足音を立てながら大股で去って行った。
あのリアクションから察するに、まだ瞳のことは振り切れてないみたいだ。例の『本命』とも、関係を解消したのかもね。ハルのことを本気で好きな彼は結局不憫なままか、どうでもいいけど。
僕も、いい加減面倒くさがらずにこの不毛なセックス漬けの日常を何とかしたいところだ。体の相性はいいし、たまにくらいなら慰めに付き合ってあげなくもないけど、毎日はさすがに嫌だ。
もうじき大学のテスト期間に入るし、今日は何が何でも外泊を阻止しよう。
スタッフから声をかけられ、僕はお愛想の笑みを浮かべて撮影用のセットへ向かった。
日曜日。僕は混み合う駅の改札口で佇んでいた。
ここに来た理由は1つ。瞳に呼び出されたから。セックスの相手をしろと。
テスト期間に入るからそういう誘いは自重してって伝えた後、3日は誘われることがなくてようやくホッとしたのに、昨日の夜になっていきなり「やらせろ」って迫ってきたんだ。
テストという言い訳を出してみたけど、「3日も自重してやったんだから十分だろう」という何とも斜め上の言葉が返ってきて、頭が痛くなった。
もちろん、最初は頑として断るつもりだったんだけど、それじゃあ面白くないな、と思う自分もいて。
って前々から買おうと思っていた高級ブランドのリュックを条件に出したら、あっさりと承諾するものだから怒りを通り越して呆れてしまった。
最初こそ僕を抱くことに抵抗を示していたのに、1度ヤっただけで止めどなく性欲をぶつけてくるの、どうかと思うよ。あと、最中に何度もハルの名前を呼んだり、僕はほとんど性的なものを感じない乳首をやたらめったら噛んでくるのも勘弁して欲しい。やっぱり瞳だってハルのこと好きなんじゃないか。ハルといい、何なのこの人たち。
なんて考えてたら、何だかイライラしてきた。リュックだけじゃ割に合わないな。うんと高くて美味しいものでも奢らせようかな。
ふん、と鼻を鳴らして、改札口を睨みつけるように見つめていると、
聞き覚えがありすぎるその怒声に、僕は思わずげ、と声を漏らす。
人混みに身を潜めつつ、そっと声のした方を見ればいた。あの特徴的な赤毛とつり目はハル以外の何者でもない。
その彼の怒りを一身に受け止めているのは、あの時の『本命』くんだった。
……待って、あの人何であんなに野暮ったい格好してるの? 帽子はギャグが何か?
彼がぺこぺこと頭を下げたり、目をまん丸に見開いたりする度、ハルが何やらわーわーと怒っている。
怒ってはいるけど、僕には生き生きと笑っているようにも見えてしまった。
前、スタジオで出くわした時は不満そうでいかにも失恋引きずってますって雰囲気だったし、途方に暮れているようにも思えたのだけど、今日のハルは別人みたいに楽しそうだ。
もしかして、あの後『本命』くんとハルは本当に付き合うことにしたんだろうか。
だけど、もしそうならあのSHIWASUでの茶番劇から少し間が空きすぎているから、変なタイミングだと思う。付き合うなら、どう考えてもあの直後だと思うんだけど。
あれこれと考察している間に、ハルが『本命』くんを引きずって出口へ向かう。
行き先は大型ショッピングモール。僕と瞳が向かう予定のホテル街とは真反対だから、彼らの目的はデートってところかな。
……そっか。恋人がすることはセックスだけじゃないんだっけ。
背後から聞こえてきた待ち人の声に、僕ははっとして振り返った。
普段と変わらない姿だったハルと違って、瞳は伊達眼鏡にマスク、モノトーンのジャケット姿でその顔も出で立ちも隠している。僕も眼鏡を掛けて、服装もモデルとして着用している可愛い系統じゃなく、シンプルなもので纏めているけど、瞳程がっちりはしない。
確かにその通りだけど、悪びれもない態度がムカつく。
けど、瞳はお構いなしに踵を返して、ホテル街へ向かう。
その右腕を僕は思い切り引っ張って止めた。