2-1 絶対無理だから!
文字数 3,784文字
薄暗いリビングの中。
ゆっくりと近づいてくる実ちゃんに合わせるように、僕はジリジリと後ずさりした。
お前が外じゃ嫌だって言ったから、家に連れて来たんだろ。
ここなら誰にも見られねえから安心しろって。
……っそ、そのことを心配してるんじゃなくてっ……あっ。
また一歩下がったら、とん、と背中に冷たい壁の感触。
その冷たさに、僕はびくん、と大きく肩を震わせた。
僕の前に立ちふさがった実ちゃんが、そっと手を伸ばしてくる。
咄嗟に俯いてしまったけど、実ちゃんの手は僕になかなか触れてこない。
と、思ったら、ドン、と頭の上で壁を叩くような音がした。
こわごわと視線を上げてみれば、じっと僕を見つめる実ちゃんと目が合った。
(む、むむむっ、無理! 体が硬直して瞼すら動かないぃっ)
ぶんぶんと首を振る僕に、実ちゃんがため息を吐く。
と、次の瞬間、僕の視界が真っ暗になった。
ちゅ、と僕の唇に温かなものが触れた途端、全身にぴりり、と電流が流れたような衝撃が走った。
同時に、壁と接触している背中や手がじわじわと熱を帯び始める。
実ちゃんの怒声と共に、僕の唇から温かな感触が消えた。
その途端、僕はどすん、と尻餅をついてしまった。
だーかーら! 息止めんなって言ってるだろ、馬鹿小晴! 鼻で息しろって、鼻で!
胸元を押さえながら咳き込む僕に、実ちゃんがは〜と盛大なため息を吐いた。
ったく……もうこれで
五回目だぞ、五回目。一回目はまあ、俺が悪かったししょうがねーけど。
二回目以降はちゃんと事前に言ってるだろ。
『キスするぞ』って。
そ、そうなんだけど……。全身が固まっちゃうし、頭の中も真っ白になっちゃうし……。
それに、アレもひどくなるし……。
前に話したでしょ?
僕、実ちゃんが近づくと動悸がするっていう、謎現象にずっと悩まされてるの。
だから、正直息が止まるより先に、心臓が止まっちゃいそうなんだよ。
……俺、前から思ってたんだけど、お前の『動悸』って別に病気じゃないんじゃね?
ぽかん、とする僕に、実ちゃんが不思議そうに首を傾げる。
だって、病院に行っても異常は見つかんなかったんだろ?
しかも、しょっちゅう動悸がするんならともかく、俺が近くにいる時だけだって言うし。
そうなんだよね……昔はこんなことなかったのに。
高校生になってから、何かあったかな……。
あ、分かった!高校生になって、急に大人っぽくなった俺が、すっげー魅力的でドキドキしてんじゃね? ほら、ちょうどモデルデビューの時期にも重なるじゃん!
いや、何となくだけどそういうんじゃないと思うんだよね。
それに、実ちゃんは確かに大人っぽくなってるけど、子供の頃と比べてすごく変わったかと言われたら、そこまでは……。
ガキの頃から、見た目も中身もほとんど変わってないお前に言われたくないんですけどー?
しゃがみ込んだ実ちゃんが、人差し指で僕のおでこをぐりぐりと押す。
とにかく、だ。こんな調子じゃお前、マジで好きな人できて、運良く付き合えることになってもすげー苦労することになるぞ?
『動悸』云々がなくても、キスでいちいち息止めて死にそうになってたら、相手もビビるだろうが。
まず、その『好きな人ができる』っていう前提が想像できないよ。
恋ってのは、ある日突然落ちるもんなんだよ。
自分には関係ないってツラしてねーで、少しはできるようになれよ。
付き合ってやるって言っただろ?
うん……
(僕は『練習する』って言ったつもりはないんだけどな……)
今から遡ること数日前。
僕は実ちゃんに頼まれて、彼の元カレである瞳さんに会ったんだ。
実ちゃんの、新しい『恋人』のフリをして。
けど、そのフリ――と言っても、僕は何もしていないんだけど――も虚しく、実ちゃんは瞳さんとヨリを戻すことができず、却って失恋の傷口を広げることになってしまった。
瞳さんたちと別れた後、僕は実ちゃんを放っておけなくて傍にいたんだ。
そしたら、『魔が差した』実ちゃんから、いきなりキスをされて。
僕は情けないことにその場で意識を失ってしまったんだ。
その翌朝、実ちゃんのマンションの寝室で意識を取り戻した僕。
直後、実ちゃんからお腹いっぱい謝られたお陰で、僕はファーストキスを従兄弟に奪われるという信じがたい出来事を、辛うじて受け止めることができたのだった。
……のだけれど、その後すぐに、
いきなりした俺も悪いけどさ……お前、キスで失神って、どんだけ恋愛下手なんだよ。
と、実ちゃんから呆れられてしまった。
先に仕掛けたのは実ちゃんだけど、まあ、それに対して気絶なんてオーバーなリアクションを取った僕も僕だよねって、ちょっと反省して、
恋愛下手っていうか、経験ゼロだからねえ。実ちゃんみたいに恋愛経験豊富だったら、笑って受け止められたんだろうけど。
なんて、僕は暢気に笑いながら答えてしまった。
うん、今思えばこの言葉、余計だった。
経験……そうだな。お前、経験積んだ方がいいぞ、マジで。
しょうがねーな。俺もフリーになったことだし、当分、小晴の彼氏役でいてやるよ。
俺で練習すれば、手っ取り早いだろ?
初めは冗談で言ってるのかと思った。
ううん、「冗談冗談!」って笑って言って欲しかった。
なのに、実ちゃんは「デートの練習もした方がいいだろ?」なんて言って、次に会う日を一方的に決めちゃって。
僕も僕で、「しなくていいから!」って強気に断れば良かったのに、「あ、うん」って頷いちゃったりなんかして。
そして、今日。
仕事終わりに、実ちゃんの自宅の最寄り駅で合流した僕たち。
外ですぐにキスの練習をさせられそうになって、僕が「外は嫌だ」と頑なに言い張ったから、実ちゃんの住むマンションにやってきたんだけど。
実ちゃんが言った通り、さっきのキスで四回目だ。最初に不意打ちでされた分を含めれば五回なんだけど……もう、僕、死んじゃいそう。
っも、もう一回?! ちょっと待って! ここに来てから僕、キスしかしてないんですけど?!
だ、大体さ! 何で実ちゃんは僕ときっ、きききキスできるの?! 僕と付き合うなんて考えられないって言ってたじゃん!
何事もなかったかのように再び顔を近づけてきた実ちゃんに、僕は身を縮こまらせながら必死に叫んだ。
すると、実ちゃんがぴたり、と動きを止め、「うーん」と首を捻った。
マジで付き合うとかはないけどさ。
見慣れた顔とはいえ、小晴ってそんなに悪くない顔じゃん?
キスするってことだけを考えたら、アリかなと。
アリじゃないよ! 同性の従兄弟って時点でハードルが高すぎるよ!
ったく、いちいちうるせーな。
ぴーぴー言ってないで、覚悟を決めろ。さすがに六回目は大丈夫だろ?
こっちに迫ってくる実ちゃんの肩を必死に押しながら、僕は足をジタバタさせた。
ん〜……するぞって言うとダメなんだな、お前。
来るぞ〜来るぞ〜って構えてると、体も変に力が入るし、気持ちもネガティブになるだろ。
やっぱ不意打ちでするか。
ふっ、不意打ちなんてもっとダメ! 絶対嫌だ! 間違いなく心臓がバクハツしちゃうから、ダメっ!
フリじゃないからねっ! やったら絶交するから!!
そこまで必死にならんでも……。
じゃあ、落ち着くまで待ってやるから。とりあえず深呼吸しろ。
肩を小さく竦めたかとおもうと、実ちゃんが僕から少し距離を取る。
その間に僕はドキドキと忙しない胸元に手を当て、浅い呼吸を繰り返した。
言っとくけど、別にお前に嫌がらせしたい訳じゃねーからな?
分かってるよ……僕のために、言ってくれてるんだよね。
(けど、本当は違うよね、実ちゃん。
瞳さんに失恋したことを必死に忘れようとしてる……んだよね)
(恋人ごっこを継続するのはどうかと思うけど……僕に甘えてくれてるんだと思うと、やっぱり突き放せない)
(どうせ、短期間で飽きるだろうし。実ちゃんがまた別に好きな人を見つけるまで、付き合ってあげようかな)
(こんな変なこと、他に付き合ってくれる人、いないだろうし)
う…………。お、お手柔らかに、お願い、しま……す。
視線を逸らした僕の頬に、実ちゃんの手が触れる。
唇より少し熱い実ちゃんの手に、また心臓がバクバクするのを感じながら、僕はぎゅっと目を瞑った。
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