4-4 ブラックコーヒー
文字数 4,175文字
夜10時過ぎ。
何とか酔いから回復した渡辺くんと駅で別れた後、僕はその足で実ちゃんのマンションを訪れていた。
僕を出迎えてくれた実ちゃんは、黒のエプロンを身に着けていて、その背後からは香ばしいお肉の匂いがした。
「そっちに行ってもいい?」って電話したとき、「メシ食ってる最中」って言ってたから、夕飯の匂いかな。
にっと歯を見せて笑う実ちゃんに、不覚にも「嬉しい」と思ってしまった。
でも、次の瞬間、僕の脳裏を掠めたのは、瞳さんの悲しい微笑み。
ほんの一瞬思い出しただけなのに、あの息苦しさが蘇ってきて、僕は思わず俯いた。
そっと体を屈めて、実ちゃんが僕の顔を覗き込んでくる。
不安そうに眉を下げて首を傾けるその顔に、僕は目頭がじわり、と熱を帯びるのを感じた。
それを振り払うように、僕はお腹に力を入れた。
実ちゃんの部屋は、以前来た時と同じように物が少なく、きちんと片付いていた。実家にいた頃は雑誌やらゲームやらで散らかし放題だったから、毎回僕が片付けていたくらいだったのに。
ベッドに腰掛けてぼんやりとしていると、実ちゃんがマグカップを2つ持ってやって来た。
僕がマグカップを受け取ると、実ちゃんは僕の左隣に腰掛けた。肘と肘が軽く触れ合うくらい近い距離に、心臓がとくとくと早いリズムを刻む。
ちら、と実ちゃんを見ると、マグカップに息を吹きかけながら、嬉しそうに笑う横顔が見えた。
いいことがあったのかな。とても機嫌が良さそうだ。
僕の視線に気がついた実ちゃんが、ぱっとこっちに顔を向ける。
目と鼻の先にある笑顔を前に、僕が取った行動は俯くという消極的なものだった。
じりじりと、嫌な焦りはあるのに、僕の口はなかなか動かない。
マグカップを持つ両手に力を込めた時、僕の肩にぽん、と大きな温もりが触れた。
はっとして顔を上げた時には、僕の体は実ちゃんの胸元にすっぽりと収まっていた。
そう言いながら僕の後頭部を撫でる実ちゃん。
ぽつり、と僕が名前を呼んだ瞬間、実ちゃんの唇が僕のおでこに触れた。
ほんの一瞬の触れ合いだったけど、唇の擦れる音がやけに大きく聞こえて、僕の口から「ん」と微かな声が零れ落ちた。
ここんとこさ、ちょっと寂しかったんだぜ?
お前と話さないだけで、何となく落ち着かねえの。お前が忙しいの分かってたから、電話、掛けちゃダメだって自分に言い聞かせてたんだ。でも、スマホを見る度に電話、したくなってさ。
恋人ごっこ。
その言葉が数時間前の、彼らのカミングアウトを一気に思い出させ、僕の体を覆っていた温かさを吹き飛ばした。
慌ててその優しい胸元から離れた僕に、実ちゃんが目を見開く。
片手で制すると、僕はマグカップのコーヒーに口をつけた。そのまま一気に喉に流し込む。
でも、淹れたてのコーヒーの熱は容赦なく僕の喉を襲い、すぐに咽せてしまった。
僕の背中を擦っていた実ちゃんが、訝しげに眉を寄せる。
僕の表情や声色で、「聞きたいこと」の内容が不穏なことであることを察してるみたいだ。
大丈夫、落ち着いて話そう。
そう自分に言い聞かせながら、僕はそっと口を開いた。
あからさまに動揺する実ちゃんに、僕の喉の奥にあったコーヒーの熱が一気に引いて行く。
肩をわなわなと震わせて、実ちゃんがぎり、と歯ぎしりする。
怒ってるだけじゃなく、今にも泣きそうになっているように見えるのは、多分僕の気のせいじゃない。
そんな実ちゃんを目の当たりにして、更に尋ねるのは辛い。でも、このまま隠され続けるのはもっと耐えられなかった。
怒りの表情を緩めたかと思うと、実ちゃんが視線をコーヒーカップへ落とした。まるでカップの中から答えを探しているみたいに何度も瞬きをした後、ゆっくりと口を開いた。
部外者。
瞳さんにも同じことを言われたけど、実ちゃんに言われたその言葉はすごくショックだった。
だめ、感情的になるな、冷静に……そんな言葉を頭の中で繰り返すけど、僕の口は勝手に動いていた。
コーヒーから、僕へ実ちゃんの怪訝そうな視線が突き刺さる。
目頭がじわじわと熱くなるのを感じながら、僕は更に尋ねた。
実ちゃんの声のボリュームが上がり、再び苛立ちが顔いっぱいに広がる。
だけど、僕の口は止まらなかった。
僕の問いかけに、実ちゃんがびくり、と肩を揺らした。と思ったら、思い切り顔を背けられた。
お前に言うことじゃねえ。
そーだよ。
嘘の恋人同士を演じてたって、話か?
あんなん、嘘に決まってんだろ。
そうに決まってる。
そうじゃなきゃ、何でそんな変なことする必要があるんだよ。
ぱっと大きく見開かれた目が、再び僕を映し出す。
僕はぷるぷると震え出す体を縮こまらせながら、口を開いた。
モデルとしての実ちゃんのことを、瞳さんはとても大切で……大好きだって言ってた。その実ちゃんを守るためなら、自分の気持ちを押し殺すことも厭わないって……それが、瞳さんなりの愛情表現なんだって、言ってたんだ。
憎々しげに僕を睨みつける実ちゃんの声音も、微かに震えている。
こんな敵意の籠もった眼差しを向けられたことなんて、1度もない。
そんな眼差しを向けられ、僕の中に生まれたのは真っ黒な絶望だった。
実ちゃんのその睨みが、瞳さんのそれに似ている。それが、実ちゃんの中に、まだ瞳さんが残っている証拠なのかもしれない。そう思ってしまう。
激昂した実ちゃんが、カァン、とコーヒーカップを目の前のローテーブルに叩き付けた。勢い良く跳ねたコーヒーが実ちゃんの手や、僕のスラックスに飛んでくる。
はあはあ、と荒々しく呼吸を繰り返した後、実ちゃんが苦々しい顔で首を横に振った。
実ちゃんからすれば、殴りたい気持ちを必死に抑え、冷静に言ったつもりだったんだろう。
でも、その言葉は僕にとって止めの一撃だった。
僕の中で、カップが割れたような音がして、コーヒーみたいに真っ黒な感情がじわじわと広がっていく。
僕も、持っていたカップをテーブルに叩き付けてしまっていた。
思い切り袖口が汚れるのを見届けることなく、僕は勢い良く立ち上がった。
隣を見下ろせば、目を大きく見開いたまま固まる実ちゃんと視線が合う。
そう告げると、僕は逃げるように実ちゃんの部屋を飛び出した。
実ちゃんが追いかけてきても逃げられるよう、必死に走る。駅に入って、適当に電車に乗ってしまえば、実ちゃんだって僕をつかまえられない。
走りながら、僕は黒い感情があらゆるところへ染み込んで行くのを感じていた。
何もかも真っ黒に染まって、目の前が見えなくなりそうで、怖い。
口をついて零れた僕の弱音は、夜の中に静かに溶けていった。