5-8 優しい雨と緑の傘

文字数 2,073文字

何だ、もう帰りか、魚谷。

うんっ、今日はどうしても急いで帰らなくちゃいけなくて!

 本屋から無事に帰って来た僕は、残りの仕事を手早く片付けると、どたばたと帰り支度を整えた。

 いつもだったら、もう2時間残って仕事をするところだけど、今日は別。

 瞳さんのサイン会終了時刻に、僕はもう1度本屋に行かなくちゃいけないからだ。

魚谷くん、ちょっといいかな。

 リュックを背負ったタイミングで、編集長が書類の束を片手にこちらへやってきた。

あ、はい! 編集長、何でしょうか。

……いや、今日はもういいよ。お疲れさま。

、で、でもっ!

大丈夫、君が明日中にこなしてくれれば、十分間に合う用件だから。

急いでいるんでしょう? 今日はそちらを優先したらいいよ。

……ありがとうございます! 明日は、必ず!

 ぺこぺこ頭を下げると、編集長はふっと微笑んで、

後悔しないよう、行ってらっしゃい。

はい!







 小降りの雨に濡れながら、僕がやってきたのは本屋――ではなく、〈カフェうのはな〉

 その出入り口が見えた、と思ったら、ちょうど木谷くんが出てきた。


っ木谷くん!

せ、先輩、何で傘差してないんですか?

いっ、急いで来たから……っ!

 胸元をどんどん叩いて、何とか呼吸を整えていたら、ぽん、と小気味良い音が聞こえた。

 はた、として見上げれば、木谷くんが笑顔で僕に緑色の傘を差し出していた。

そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。

何時間だって待てますから。

……ううん。もう、待たせないよ、木谷くん。

えっ。

 一瞬、木谷くんの傘の柄を持つ手がぷるっと震えた。

 その大きな手を見つめながら、僕は彼から1歩距離を取る。背中がまた濡れ始めるけど、構わない。

 ちゃんと目を見て、答えたいから。


僕、木谷くんのこと、たくさん知ることができて嬉しかった。僕のこと、好きだって言ってくれたことも……すごく嬉しかった。君といて、嫌だって思ったことは1つもないんだ。

だからこそ、君には誠実に答えなくちゃって思ってた。

でも、考えれば考える程分からなくなって、君をたくさん困らせた。

でも、今日、ようやく分かったんだ。

僕も、木谷くんが僕のことを本気で好きだって言ってくれたように、本気で実ちゃんのことが好きなんだ。この気持ちを誤摩化し続けていくのは、嫌だ。この気持ちと、ちゃんと向き合っていきたいんだ。

だから、木谷くんとは付き合えない。

……ごめんなさい!

 そこまで言い切ると、僕は頭を下げた。

 背中は冷たいけど、顔は火が噴き出してるんじゃないかってくらい熱い。


 しばらくして、ぱちゃん、と水が跳ねる音がした。同時に、背中に当たる雫の感触が消えた。

 おずおずと顔を上げると、少し屈んだ木谷くんの微笑みがすぐ傍にあって。


やっと、気がついたんですね、先輩。

えっ。

俺、分かってました。先輩が俺じゃなくて、水野先輩を選ぶんだってこと。

高校の時から、水野先輩のことよく話してましたけど、こうやって再会した時もそれは全然変わってなかった。

その時点で、分かってたんです。

木谷くん……。

 笑顔を絶やすことも歪めることもなく、誠実な言葉をくれる木谷くん。

 そんな彼の前でまたみっともなく泣く訳にはいかない。


僕も、君が僕に伝えてくれたように……怖がらずにちゃんと実ちゃんに伝えるよ。

答えは分かり切ってるけど……でも、隠さずに伝えなくちゃ、一生後悔するから。

だから、僕も……思い切り振られてくるねっ! 


……いてっ?!

 不意に襲ってきたつむじへの痛みに、僕はたまらず悲鳴を上げる。

 原因は木谷くんが持っていた傘の内側にある骨のせい。僅かに蹌踉けた彼の動きに引っ張られて、僕のつむじに追突してしまったらしい。

 すみません、と木谷くんがすぐに傘を上げてくれた。でも、その表情は申し訳ないというよりも、呆れているように見えて。


忘れてました。先輩が天然記念物級のニブチン野郎だってこと……。

え……えっ? 

僕、何かおかしなこと言った??

 実ちゃんにもよく言われるその言葉に僕がおろおろすると、木谷くんは返答することなくはぁ~~~~と盛大なため息を吐いてしまった。


 そ、そんなため息吐くなんて、そんなに僕、かっこ悪い返答を……。


 ショックで何も言えないでいたら、不意に木谷くんがぷっと噴き出した。

まあ、その方が先輩らしいですね。うん。

それは……褒めてる?

80%くらいは。

残りの20%は呆れてるんだ……。

でも、そんな先輩が俺はずっと好きなんです。振られた今も、それは変わらないから。

 笑う木谷くんの肩は濡れて、シャツが貼り付いてしまっているし、髪も毛先からぽたぽた、と雫が零れ落ちている。

 でも、彼は僕に緑色の傘を傾けたままだ。


返事してくれてありがとうございました。俺、先輩に告白して、本当に良かったです。

っ僕も……ありがとう、木谷くん。

君にこんなに思ってもらってるって知って……すごく、すごく嬉しかった。

本当に……ありがとうね。

俺はこれからも〈うのはな〉にいますから。

また、メシ食べに来る時にでも、先輩の話を聞かせて下さい。

昔と……高校生だった時と、同じように。

……っうん!

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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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