1-8 初めてのシュラバ(恋愛編)
文字数 4,126文字
<前回までのあらすじ>
僕、魚谷小晴は冴えない雑誌編集者。
恋愛? 何それおいしいの?
な僕が、ひょんなことから従兄弟の実ちゃんの恋人(アレを突っ込まれる方)のフリをすることになっちゃった。
だけど、実ちゃんに近づくと謎の動悸がする僕。
高校生の時から悩まされているこの症状は、今夜も絶好調!
手を握られただけで、ドキドキバクバクうるさいよ!
でも、実ちゃんはお構いなしに夜の繁華街へ向かって行く。
ああ、こうしてあらすじを読んでいる間もドキドキバクバクうるさくて、もう僕、死んじゃいそう。
あ、語り手の僕が死んだら、このお話終わるよね?
そしたら今回で最終回? 1章で終わるんだったら、章立てする必要ないじゃん!
今までありがとうございました、原田先生の次回作にご期待下さ――。
頭の中に浮かんだおかしなテロップを掻き消すように、僕は自分の頰をぺしぺし叩いた。
そんな僕の目の前では、実ちゃんの後ろで括った赤毛がゆらゆら揺れている。
歩き出してから、実ちゃんは1度も僕の方を見ないし、無言だ。
僕が口を開いたのと、実ちゃんが立ち止まったのは同時だった。
僕らの目の前にあるのは、雑居ビル。その手前に、小さな看板が立てかけられた地下へ続く階段がある。
看板には『SHIWASU こちらから』の文字。
戸惑う僕のことなんてお構いなし、と言わんばかりに、実ちゃんが小さな階段を下りて行く。
気をつけていないと、壁に肩が擦ってしまいそう。そのくらい狭い階段を下りたその先には、木製のボードの掛かったドアがぽつん、と佇んでいた。
古ぼけた金色のドアノブといい、『Welcome』のボードといい、レストランバーというよりは、純喫茶を思わせる入り口だ。
実ちゃんがドアを開けると、からんからん、とベルの音が頭上から聞こえてきた。
燕尾服をモチーフにした制服を着たウエイターさんと素っ気ない会話をかわすと、実ちゃんはずんずんと奥へ進んで行く。
木目調の壁に、床には赤い絨毯。照明は抑えめで、店内に流れる落ち着いたジャズピアノとよく合っている。
お店の目玉なのか、ダーツ台がいくつか置かれていて、ゲームを楽しんでいるお客さんの姿がチラホラ見えた。
そのダーツ台エリアの奥にバーカウンター、テーブル席があった。
こんなお洒落なお店で働いてるんだ、実ちゃん。さっきの店員さんの格好、似合いそうだ。機会があったら見てみたいな。
と、唐突に実ちゃんが急に立ち止まった。
そのせいで、僕はその後頭部に思い切り顔をぶつけてしまった。
うう、鼻先が痛い。
普段とは違う、ドスの利いた低い実ちゃんの声音に、僕ははっと息を呑む。
実ちゃんの後頭部からそっと視線をずらすと、壁に面したソファー席が見えた。
そこに並んで座っていたのは、2人の男性。
1人は、目的の人物である如月瞳さん。
雑誌やテレビで見慣れているから、すぐに分かった。
……というか、変装とかしてないけど、いいのかな……?
瞳さんが綺麗な桜色の唇の端を上げて、実ちゃんを煽ってくる。
唇は笑ってるけど、目が全然笑ってない。
雑誌やテレビでは慈愛に満ちた天使の笑みってキャッチフレーズまでついてるくらい、目も口もニコニコしてるのに。
仕事の顔と本性が一致するとは、必ずしも言えないこと。
この世界に限らないことだけれど、別段珍しいことじゃない。
けど、実際目の当たりにすると……あの優しい笑顔1つで、「いい人っぽい」って勝手に解釈しちゃってたんだなって思い知らされる、気がする。
そう言う意味でも、僕は瞳さんの隣に座っている、もう1人の登場人物が気になる。
瞳さん同様初対面の相手だけど、僕はこの人のことも知ってる。
怒る実ちゃんを更に煽るように、瞳さんが隣の彼の肩を抱く。
すぽ、と瞳さんの胸元に収まった彼—―碧人さんはにこりともせず、じ〜っと実ちゃんを見ている。
可愛い顔立ちのせいもあるけど、よく出来た人形みたい。
美樹碧人(みき あおと)。
実ちゃんや瞳さんと同じ事務所所属のモデルさんで、ついこの間、僕が買った雑誌にも掲載されていた。しかも、実ちゃんとのツーショットで。
その時から僕、この碧人さんのことはちょっと気になっていたんだ。初めて見る顔じゃないなあ、どこかで見た気がするかもって。
で、調べて納得した。
彼、去年の『サミダレボーイズグランプリ』で優勝した子だった。このグランプリは、テレビでも最終審査や表彰式の様子が取り上げられるほど、大規模なイベントだ。
実ちゃんが怒りに任せて手を握りしめてきたものだから、僕はたまらず声を上げた。
実ちゃん、僕と手を繋いでること、忘れてるでしょ!
僕もちょっと忘れかけてたけど!
碧人さんの呟きに反応して、実ちゃんがようやく背後にいた僕の方を振り向いた。
勢いよく振り向いたものだから、思ったよりも顔が近くなってしまい、僕の心臓がばくばくと激しい音を立てる。
逃げるように視線を逸らすと、瞳さんと目が合ってしまった。
その瞬間、瞳さんの唇に浮かんでいた不敵な笑みが消える。
感情のない人形みたいなその表情に、僕はぶるっと体を震わせた。
瞳さんがそう告げた途端、彼の唇は再び吊り上がった。
あれ? さっき見せた能面みたいな顔は、僕の目の錯覚だったのかな。
実ちゃんが手を引っ張って僕を前に押し出したかと思うと、背後からぎゅっと抱きしめてきた。
え、ちょ、な、何、この展開?!
耳たぶに当たる実ちゃんの吐息のせいか、動くことも喋ることもままならない僕。
それを初対面の、しかも、顔面偏差値が圧倒的に上の2人に見られてしまっている。
もう恥ずかしすぎて、体が溶けちゃう。いや、消えてなくなりたい。
きっと、ゆでダコみたいな顔してるよ、僕。
目の前がくらくらして、全身から力が抜けていく。
もう、いいよね。
何かアウェーな感じだし、このまま気絶しても会話に支障はなさそうだし。
と、不意に僕は後ろへ突き飛ばされた。
視界ががくん、と下がったかと思うと、僕の臀部に鈍い衝撃と、床の冷たさが襲った。その痛みと感触に、僕は思わず眉を寄せる。
実ちゃんが瞳さんの胸ぐらを掴んだ瞬間、僕は臀部の痛みを忘れて飛び起きた。
低い声音で実ちゃんがそう告げる。
すると、瞳さんの目がすっと細められた。
1度も感情を露わにしなかったその目が、楽しげに爛々と輝いている。
背中を向けているから実ちゃんの表情は、分からない。
でも、きっと瞳さんの笑みを深めるようなものだったんだろう。
静かに闘志を燃やしているだろう実ちゃんの背中を見つめながら、僕は密かに思った。