1-1 僕たち、「恋人」になる……みたいです?
文字数 3,710文字
夕方の帰宅ラッシュで賑わう、某駅の中央改札口。
この駅がいくつもの路線と繋がっているためか、はたまた直結する大手百貨店へ向かうためか、人波が落ち着く気配はない。
そんな通行人たちを避け、僕は切符売り場の隅で佇んでいた。
生まれてこのかた染めたことのない黒髪1本から、毎日欠かさず磨いている紺の革靴の爪先まで、ぴりぴりとした緊張で固まっている。
緊張でガッチガチの僕の心に、ぽつ、と浮かんだ弱気な呟き。ごま粒サイズだったそれは、熱した金網の上のお餅のごとくぷく〜っと膨れて、僕の中に広がっていく。
そうだよ、無理だもん。いくら実ちゃんのお願いでも、無理なものは無理だよ。嘘吐くの、苦手だし。
大体、僕にそういう経験なんかないし。23歳童貞だし! うん! どう考えても実ちゃんの人選ミスとしか言い様がない!
いくら実ちゃんと言えど、ミスはするよね! 人間だもの!
残念! 僕の冒険はここで終わってしまった! ちゃん、ちゃ……。
僕が勢い良く踵を返すのと、不機嫌な声が聞こえてきたのは同時だった。
ぶっきらぼうな声と共に、コンッ、と僕の額に鈍い痛みが広がる。
いきなり童貞とか言い出すから、すげービビっちまったじゃねーか。
大丈夫かよ、お前、これから――。
ズザザっと音を立てて後ずさりした僕に、実ちゃんがその手首を掴んだ。僕よりもやや小さな彼の手の温もり。それが触れた箇所から燃えるような熱が込み上げてきて――。
は、離して、実ちゃん! ヤバいから! 持病が! 動悸が! 心臓がかつてないほどバクバクしてるから!
逃げないよ! に、逃げるどころか、このままだと死んじゃうから! 実ちゃんのお願い聞けないまま死んじゃうから! だからあっ!
舌打ちをしつつ、実ちゃんは僕の手首を解放してくれた。
だけど、僕の心臓はまだばくばく、と忙しない音を立てている。
本当はもう一歩下がって、実ちゃんから距離を取りたい。
けど、そんなことしたらまた、触られちゃうかもしれないし……少し、我慢しないと。
(我慢……できる自信がないよぉ。一刻も早くお家に帰りたい……まぐろ(うちで飼ってるネコ)をモフモフしたい……)
ここまで来て、そんなこと言うなよ。
別に難しいことじゃねーだろ、そういうフリをしてくれたらいいだけなんだから。
ただのフリでも、できる自信がないんだよ。
自分で言うのもなんだけど、僕、恋愛のことって何にも分からないんだ。
誰かを好きになったこともないのに、恋人らしく振る舞えとか、パラシュートなしで飛行機から飛び降りろって言われているようなものじゃない?
大げさだな。そもそも、小晴の演技力なんて、最初から期待してないって。
お前は俺の恋人だって、瞳に言ってくれたらそれでいいから。
そうそう。ほら、この前一緒に遊びに行っただろ? あの時と同じノリでいいんだって。
で、「恋人です」って言ってくれたらいい。
どうだ、そんな難しくないだろ?
(そのセリフを言うだけでも、僕には相当プレッシャーなんだけど……まあ、ここまで来たら付き合うしかないか)
にっと笑った実ちゃんが僕の手を掴んだかと思うと、当たり前のように指を絡ませてきた。
フリだよね?! フリなのにここまでする必要あるの?!
この方が説得力あるだろ。
それに、お前、すぐに俺から距離取ろうとするじゃん? それだと嘘だってバレるだろ。
こ、恋人って言うだけでいいって言ったじゃん!嘘つき!
うっせーな。これでも恋愛下手のお前に合わせてやってんだぞ? 本当なら、腕を絡ませたいくらいだってのに。
俺、恋人にはベタベタしたいし、されたい人だし。瞳と付き合ってる時もそうだったぜ?
でも、お前には無理だろ? だから、手を繋ぐくらい我慢しろ。ちっとはガンバレ。
これ以上、何を言うって言うんだ、実ちゃん。嫌な予感しかしないぞ、実ちゃん。
それでも、恐る恐る尋ねるしかない。
「お前が右に行け。俺が左に行くから」みたいなノリで言われたけど、意味が分からない。
タチ? ネコ? ネコなら確かに、僕は飼ってるけど……タチって何?
……いや、待てよ。前にもそんな言葉を実ちゃんの口から聞いたことがあるような。
お前、絶対勘違いしてると思うから、簡単に説明するぞ。
要するに、俺がお前のケツにちんこを突っ込むって話。
いるに決まってるだろ。俺の恋人だぞ、ヤッてない訳がねーじゃん。
ふふん、と何故か自信満々に胸を張る実ちゃん。誇るようなことじゃないと思うのは僕だけだろうか。
実ちゃんが恋愛の話をすると、8割が下ネタ。そう言っても過言じゃないくらい、実ちゃんはそういう性的な話題が好きなのだ。それはもちろん、僕も知ってるけど……これはひどい。
実ちゃん謝って。実ちゃんを可愛く描いてくれたイラストレーターさんに、今すぐ謝って。
っあ、あのさ……僕の記憶違いじゃなければ……さ、実ちゃんって確か、そのつ、つつつ突っ込まれる側、じゃなかったっけ?
いやいや、お前。そんな、「僕が実ちゃんに抱かれるとかあり得なくない?」みたいなリアクションしてるけど。お前も結構アレじゃん。
見た目も性格もナヨナヨしてるし、男らしさの欠片もないじゃん。ヒイヒイ言わせる方より、ヒイヒイ言わされてる方が似合うって。
見たまま言っただけじゃん。まあ、ぶっちゃけ、突っ込むにしろ突っ込まれるにしろ、お前とヤるって想像は全くできないんだけどな。
ぼ、僕だってそんなの想像したことないよっ! っていうか、できる訳が――。
慌ててそう言い返す僕の脳裏に、ふと、桃色の靄が掛かった光景が浮かんだ。
煌びやかなシャンデリア。その目映い光に照らされたのは、2人どころか、4、5人ほどが寝そべられそうなキングサイズのベッド。その中央に横たわった僕は石像のように固まったまま、上に覆い被さってきた実ちゃんを見つめている。
なあ……いいだろ、小晴……。俺たち付き合ってるんだから、抱かせろよ。
だ、ダメだよ、実ちゃん……っ、ぼ、僕たち、従兄弟なんだよっ。
そんなの、関係ねえよ。お前だって、満更でもないんだろ? 身も心も俺のものになっちまえよ、小晴。
だろ? それに、俺の新しい恋人がタチじゃなくてネコだって知ったら、あの瞳だってさすがに驚くだろ。インパクトとしても十分だと思うんだ。
そうに決まってる! アイツ、俺には浮気する度胸もねえって言いやがったんだ。自分は平然としておいて……ぜってえ、鼻の穴、明かしてやる。
ぎり、と歯を鳴らし、実ちゃんが繋いだ手に力を込める。
その痛みに僕は小さく肩を揺らし、こくり、と喉を鳴らした。
(そうだった。このお芝居は実ちゃんにとって復讐なんだ。僕は、そのお芝居をリアルに見せるためだけに存在する小道具に過ぎない)
(今まで、色んな人と付き合って来た実ちゃんだけど、こんな風に別れた相手に突っかかるなんて初めてだなあ)
そう考えたら、何だか手を繋ぐことがイケナイことのように感じてしまって、実ちゃんに握られた手を、僕はこっそりと振りほどこうとした。
でも、手を動かした次の瞬間、実ちゃんの手に更に力が籠もった。
僕の手の甲に、実ちゃんの爪が容赦なく食い込む。
実ちゃん、爪が痛いから、もう少し力を緩めてよ。
そう言いたかったけど、ずかずかと前に進む実ちゃんの背中は、僕の話を聞いてくれそうにはない。
実ちゃんは昔からそう。一度火が付くと、燃え尽きるまで周りの声が聞こえないんだ。
(やっぱり、安易に引き受けるんじゃなかったかもしれない)
(でも……慎重に考えた上で、断りの言葉を告げたとしても、最終的には実ちゃんのお願いに頷いてしまう僕がいるんだろうな。昔からそうだ。僕は、このワガママで甘えん坊な従兄弟の『お願い』を、絶対断れないんだから――)
実ちゃんの爪が食い込んだ自分の手の甲を見つめながら、僕はやれやれとため息を吐いた。
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