3-8 おやすみ
文字数 5,719文字
2階にある僕の自室には、小さなテレビがある。
昔から、実ちゃんが遊びにくると、このテレビの前で何時間でも遊んでいたものだ。
そして、今、そのテレビの画面には、2頭身のデフォルメされたキャラたちがちょこまか動き回る映像が映し出されていた。
主人公の『オニ男』は頭部に大きなツノを1本生やしていて、それが尖り帽子を被っているようで可愛い……と僕は思うんだけど、実ちゃん曰く、「デフォルメされてる癖に顔が怖ぇから可愛くねーよ」らしい。
緑茶を啜る僕の隣で、実ちゃんがコントローラーをがちゃがちゃ鳴らしている。
今日も喜怒哀楽で忙しい実ちゃんの横顔に、僕が抱えているような疲労感はなさそうだ。
僕はと言えば、家に帰ってきてからずっと体が重たくて仕方がない。
お風呂に入ったらリラックスするどころか、実ちゃんに密着されて心臓をバクバク高鳴らせっ放しだったし。
しかも、不覚にも昂ってしまったペニスを弄られるし。もちろん、イくところもしっかり見られて、悶絶したのは言うまでもない。
その後、実ちゃんの手料理を食べることになったんだけど、その内容がハードだった。
ほぼ肉オンリーの豚丼に、やっぱり肉の比重高めのサラダ、極めつけが肉120%の豚汁……という肉にまみれたメニュー。どれもボリュームたっぷりで、味付けも実ちゃんの好みに合わせてこってりしたものだった。
キラキラの笑顔で言われてしまった手前、「無理」と言えなかった僕。
結局、綺麗に完食せざるを得なかった。
更にデザートとして、僕が買ってきた1ピースのショートケーキ――ちなみに、実ちゃんからの「おかえり」にビックリして、落としちゃったから、箱から出した時はグチャグチャになってしまっていた――を実ちゃんとはんぶんこにして食べた。
当分、豚肉と生クリームは見たくない。
そんなヘビーな夕食後、実ちゃんが「ミラオニ持って来たから、やろうぜ!」と言い出し、数年ぶりに実ちゃんと元祖・テレビゲーム版のミラオニをすることになって。
最初はステージごとに交代してやっていたんだけど、気がついたら、僕は実ちゃんのプレイを観戦しているだけになっていた。
実ちゃんも、交代してくれそうな素振りすら見せない。多分、ゲームに熱中しすぎて、隣の僕の存在を忘れちゃったんだろうなあ。
コントローラーのがちゃがちゃ音やミラオニのラストステージの緊迫したBGMは、僕の弱気になった心を小さく引っ掻いてくる。その傷口からじわじわ滲むのは、嫌な焦燥感だった。
実ちゃんも、ミラオニも悪くないのに。
それを吐き出さないようぐっと押し込めると、僕は空になったカップを床に置いて立ち上がった。
目を丸くする実ちゃんにひらひらと片手を振ると、僕は背後のベッドへ潜り込んだ。
冷たい枕に頬をくっつけ、僕はほっと息を吐く。
すると、そのため息を待っていたかのように、ぴろろん、と軽やかな音が聞こえてきた。
あ、この音。確かミラオニでセーブをする時に流れる効果音じゃなかったっけ。
なんて思う間もなく、ぶつん、と電源が落ちる音が聞こえてきた。
その大きな音に僕がくるりと振り返った時、
振り返ったら、実ちゃんの顔がドアップで迫っていたんだ。そりゃ叫んじゃうよ。
実ちゃんを入れまいと、掛け布団を握りしめながら僕が叫んだ瞬間、どぉん!と床から凄まじい音が鳴り響いた。
お互いにひえっと叫んで床を見たけど、凄まじい音がしたと思えないくらい、何も変化はない。
あ、そうだ、僕の部屋の真下は、お母さんの部屋だっけ。
僕らがあんまりにもうるさいから、天井に物か何かを投げつけたんだろう。
でも、その1回の『天井ドン』で溜飲を下げたのか、再び下から何か聞こえてくる様子も、「うるせーぞお前ら!」と怒鳴り込んでくる様子もない。
ほぉ、と僕が安堵の息を吐くと、実ちゃんの「はあ〜」という盛大なため息が頭上から降ってきた。
そこで僕は、ようやく気がついた。
実ちゃんの胸元に、思い切り飛び込んでいる自分に。
慌てて退こうとした途端、実ちゃんは僕をそのまま抱え込んでしまった。
実ちゃんの胸に更に自分の頭を押し付ける形になってしまった僕は、更にパニックになってジタバタと暴れた。
ダメだ、動揺しすぎてるせいか声が出ない。金魚みたいに口をぱくぱくさせるだけで精一杯だ。
そんな僕の後頭部に、ぽん、と温かなぬくもりが触れた。
降ってきた実ちゃんの声音の柔らかさに、僕ははた、と動きを止めた。
お前は、ぶっ倒れるまで頑張っちまう奴なんだからって。
お前がそうしてくれるように、俺だって聞いてやるし、励ましてやれるからさ。
『恋人』だから――っていうのもあるけどさ。
『恋人』以前に、俺にとってお前は、ガキの頃からずっと一緒で大事な家族なんだよ。
そんな家族が傷ついてたら、何とかしてやりたいって思うのはおかしいか?
ただそれだけで、僕の目頭は熱を帯びて、鼻先がすん、と鳴った。
その後、アツアツのミルクティーを手に、実ちゃんと並んでベッドに腰掛けた僕は、仕事であったことを話した。
それから、改めてデートをドタキャンしてしまったことも、頭を下げて謝った。
まるで自分のことのように唇をへの字に曲げる実ちゃんに、僕は力なく微笑んで首を横に振った。
取材の時も一緒だったし、執筆中だって、何度も打ち合わせもしたし。電話も、毎日してた。
なのに、客観的に状況を把握することをしないで、ライターさんの言葉を鵜呑みにしてしまった。
その結果、雑誌の1コーナーが消えたんだ。
ふわふわと優しい湯気を零すマグカップを覗き込むと、今にも泣き出しそうな自分の顔が見えた。
僕は今、こんな顔をして実ちゃんと話してるのか。見て欲しくなかったなあ、こんな顔。
そう思ったら、ますます情けなく思えてきて、僕はきゅっと瞼を瞑った。
ライターさんも失踪しなくて、原稿もちゃんと仕上がってたんだろうなって、そんなことばかり考えちゃうんだ。
もう、終わってしまったことだって分かってるのに。
こんな情けないことばかり、口にしたくない。でも、口一杯に広がる優しいミルクティーに促されるように、言葉が溢れてきて、止まらない。
また自己嫌悪に苛まれる僕の耳に、実ちゃんの呆れたようなため息が聞こえてきた。
ぐい、と唐突に僕の右頬が摘まれる。
でも、抓ることはしなくて、こっちを向け、と言わんばかりにくいくいと引っ張るだけだ。
僕がのろのろと瞼を持ち上げると、実ちゃんがいつになく真面目な顔でこっちを見ていた。
僕の右頬を摘んでいた実ちゃんの指が額へ移動し、短い前髪をなぞる。
またまた〜。何か企んでるでしょ、知ってるからそのパターン。
笑い飛ばすつもりで、僕は唇の端を吊り上げてみせた。
でも、実ちゃんがちっとも笑わないでじっとこっちを見つめているのを見て、すぐに口元に浮かべた笑みを引っ込めた。
どうしよう、何か言いたいのに、言葉が見つからない。
言葉の代わりに、心臓がばくばくと主張を始めてしまって、アツアツのミルクティーが温く感じられるくらい、顔中がじわじわと熱を帯び始める。
ふっと口元を緩めた実ちゃんに顔を寄せられて、僕はたまらず目を瞑った。
数秒経たずに、唇にふわり、とミルクティーの味が掠める。
すぐに逃げて行ってしまった唇を追いかけるように僕が瞼を持ち上げると、実ちゃんの笑顔が待っていた。
お前が心から、「キスしたい」って思えるタイミングで、できる相手がいいよ。男でも女でも、どっちでもいいけどさ。
ちょっと冗談っぽく言ってみたんだけど、実ちゃんは何故か苦々しげに眉を寄せてしまった。
実ちゃんが躊躇うように瞼を伏せる。
その隙を突いて、僕は自分から実ちゃんの唇に触れた。
一瞬、実ちゃんの表情が暗くなったように見えたけど、気のせいかな。
僕も眠気のせいか頭がぼうっとなってきたし、きっとそうだ。
マグカップを床に置くと、実ちゃんはもぞもぞと布団に潜った。
僕もソレに倣って、体を横たえる。
やっぱり大の大人2人が並んで寝るには、このシングルベッドは狭すぎる。ちゃんと二人収まるには、お互いに向き合う体勢でないといけない。
ふわあ、と大きく欠伸する実ちゃんを間近で見つめながら、僕は唇がじんじん、と熱を帯びるのを感じていて。
おやすみ、と言おうとしていたのに、口をついて出たのは欲望に素直な気持ちだった。
実ちゃんはとろん、とした目で、僕をしばらく見つめた後、
ちゅ、と小さなキスを落として、瞼を下ろした。
規則正しい呼吸と、開く気配を見せない瞼。
僕の家に泊まるのが当たり前だった子供の頃と変わらないように見える時もあるけど、やっぱり今の実ちゃんはあの頃と違う。
そんな実ちゃんの隣でこうやって眠れる僕は、すごく幸せ者だ。彼の寝顔を見ていると、そんなことを思ってしまう自分がいる。