5-6 流れ星は混沌の中に現れる
文字数 2,055文字
〈如月瞳初エッセイ本発売記念・サイン会開催のお知らせ〉。
ゆったりとした昼下がりの急行電車内。
珍しく空いている座席を確保した僕は、スマホをチェックしていた。その中で、実ちゃんのSNSが更新され、冒頭のタイトルが出てきたのだ。
うちの編集部と関連する出版社からリリースされる、如月瞳さんのエッセイ本。
もちろん、その本の存在もサイン会があることも前々から知っている。けど、開催日が今日だったことはすっかり失念していた。
記事によると、会場は僕の職場近くにある大型本屋。この本屋は元々こういったサイン会イベントがよく行われているので、別に珍しくも何ともない。
夕方から開始されるってことは、僕が打ち合わせを終えて編集部に戻る時間だ。瞳さん関連のファンイベントはいつも混雑するから、本屋には近寄らない方がいいかもしれない。
そう思って画面をスクロールしたら、即座に現れた実ちゃんの最新コメントにドキッとしてしまった。
『今日、近く通るから冷やかしにいこうかな(笑)』
見なかったことにしよう、とページを閉じたら、1件のメールを受信した。
木谷くんからだ。
『今日、夕飯を一緒に食べませんか?』
そのお誘いで思い出したのは、前回のデートのこと。
碧人さんから実ちゃんのことを聞いたせいで動揺して、木谷くんに気を遣われて、中途半端なところでおしまいになっちゃったんだ。
木谷くんのこと、ちゃんと考えたい。
でも、今の僕は前回のデートの時と変わらない、中途半端なままだ。いくら木谷くんが「忘れなくても良い」と言ってくれているからといって、こんな生半可な状態のままズルズルと会っても、却って木谷くんを傷つけてしまうだけじゃないか。
なんてモヤモヤ悩んでいると、また木谷くんからメールが届いた。
『俺は先輩に会いたいです。どんな話でも聞くので、俺と会って下さい』
まっすぐな好意に溢れた文面。
好きな人に会いたい。その純粋な気持ちは僕だって痛いくらい分かる。
『ご飯の後、ゲーセンに付き合ってくれる? やりたいゲームがあるんだ』
『いいっすね、了解です』
木谷くんの素早い返信に口元を緩ませながらも、僕は心の何処かがじくじく痛むのを感じていた。
予定通り打ち合わせを終わらせ、僕が編集部の最寄り駅に着いたのは夕方。
まっすぐ編集部に戻る予定だったんだけど、渡辺くんから買い物を頼まれ、僕は例の本屋へ行く羽目になってしまった。
本屋の入り口には瞳さんのサイン会の看板が大々的に飾られていて、ファンらしき女の子たちが熱心にスマホを向けていた。
そんな楽しげな空気を横目に、僕はぎこちなく周りを見回してしまった。
僕の用事がある本屋の3階は、サイン会のイベント会場もある階だ。
それを知った時点で嫌な予感はしていたのだけど、3階にたどり着いた途端、大勢のお客さんで溢れているのを見て、僕はうわぁ、と眉を寄せた。
奥に位置するサイン会場への列は階段のところまで伸びていて、手前の書籍コーナーには掛からないようにしてある。
……んだけど、その書籍コーナーにもファンらしき女の人たちがたむろしていた。確か、サイン会は抽選生だったはずだから、ここに溜まっている人たちは多分、抽選に外れたファンの人たちなんだろう。みんな、少しでも会場にいるだろう瞳さんを見ようと必死なご様子だ。
スタッフさんが「書籍コーナーへのたむろはご遠慮下さい」と懸命に呼びかけてるけど、それでも混雑が解消される様子はない。
一旦出た方がいいかも、と思ったけど後の祭りで、後方も続々と人が入って来て戻れなくなってしまった。
両手にしっかりと目的の本を抱えて回れ右した僕が、人混みをかき分ける覚悟を固めた瞬間、きゃああっと黄色い声が上がった。
その途端、一気に人波が押し寄せ、僕は思い切り尻餅をついてしまった。
お尻の痛みを感じる間もなく、体のあちこちをバシバシ叩かれ、視界は見知らぬ人の足元で覆われてしまう。
ほっぺ思い切り蹴られたあ!
痛すぎて踞る僕の頭をばこばことまた容赦ない蹴りが襲ってくる。
甲高い歓声のせいで、耳鳴りが止まらない。
物理的な痛みと耳鳴りによる気持ち悪さで嘔吐感まで襲ってきて、僕が更に身を縮こまらせたときのことだった。
よく通るその声に、僕ははっとして頭を上げる。
視界に飛び込んできたその人は、赤い目を大きく見開いて僕の顔を覗き込んでいる。
ぷつん。
そんな音と共に、僕の意識はログアウトした。