1-7 恋愛未経験者の迷走
文字数 6,941文字
仕事仲間の渡辺くんの慌てた声に、僕ははっと我に返った。
同時に、両手に持っていたマグカップが大きく傾いてることに気づいて、慌てて上向きにする。
いけない、あと数秒遅れていたら、新調したネクタイと大事なパソコンをコーヒー色に染めるところだった。
僕がは〜と胸を撫で下ろすと、今日も賑やかなサミダレエンターテイメント編集部のオフィスを背にした渡辺くんが、「おいおい」と呆れた様子で肩を竦ませた。
冷め切ったコーヒー。
その真っ黒な水面に映る自分の顔を見つめながら、僕は眉を寄せた。
時間通りに起きたのに頭が全然働かなくて、ベッドから出るまで30分も掛かっちゃったし、目玉焼き固焼きにしちゃうし、まぐろのご飯、僕が食べそうになっちゃうし……。
ああああっ、まぐろ、めっちゃくちゃ怒っちゃって、僕が家を出る時間になっても出て来てくれなかったんだよ!
明日から起こしてくれなかったらどうしようっ!!
言いよどむ僕の脳裏に浮かんだのは、昨晩ーーというか、日付変わった頃に来たから、正確には今日だけどーー送られて来た実ちゃんからのメール。
そう。
今夜、実ちゃんの一生のお願いを叶えるため、彼の恋人のフリをして、元彼氏の瞳さんに会うことになっている。
もちろん、忘れていない。というか、忘れられない。
実ちゃんが恋人に振られて、メソメソするのはいつも通りだ。
でも、まさかその復讐に付き合うため、実ちゃんの彼氏のフリをしなくちゃいけないのは、今までにない展開だ。
お願いを受け入れた直後は「まあ、何だかんだで何とかなるでしょ!」なんて楽観的に考えられていた僕。
でも、Xデーが近づけば近づくほど、
「恋愛経験のない僕が、フリとは言え恋人を演じられるのか」
「しかも男同士のカップルって、いきなり難易度ハードモードじゃない?」
「恋人のフリって……何をすればいいんだろ?」
「大体、僕、実ちゃんの傍にいると、例の『動悸』が出るんだけど……」
と、あれこれ考えてしまうようになった。
で、今、僕の頭の中を占めていることと言えば、
真剣に語る僕の肩をぽんぽん、と優しく叩いてくれる渡辺くん。
穏やかな笑顔を浮かべているけど、目が笑ってないし、視線が泳いでる。
と、そこまで言いかけて、僕は慌てて口を噤んだ。
実ちゃん(従兄弟で男)の恋人のフリをしなくちゃいけなくなったから。
なんて、正直に言ったらどうなるか。ただでさえ僕を可哀想な人を見る目で見つめている渡辺くんとの距離が、精神的にも物理的にも離れてしまいそうだ。
渡辺くんの肩を激しく揺さぶって懇願する僕。
必死に見えるって? だって、必死だから!
すると、渡辺くんがこほん、と咳払いをした。
たどり着いたのは、カフェ<うのはな>。ここは、サミダレエンターテイメント編集部のあるビルに隣接している、小さな和風のカフェだ。
仕事の打ち合わせの時はもちろん、ちょっとした休憩でも使う、僕の癒しスポット。
抹茶色に纏められた内装や、漆塗りのテーブルのつやつや感が落ち着くんだよね。
和風スイーツが、どれもコーヒーとよく合うのも、お気に入りだ。
友達A『そら、セックスだろ』
友達B『童貞卒業一択』
友達C『おっぱい揉んどけ』
(唯一まともな返事をしてくれたのは、男の人と付き合ってる友達だけ。
彼は高校生の時の友達で、実ちゃんとも仲が良かった。
常識のある人だし、何より男の人と付き合ってるから、より詳しく聞けるかもって思って、彼にだけ、事情を話したんだよね。そしたら、)
『お前一応ノンケだろ? しかも恋愛事苦手じゃん。
実治の恋人役なんて、字面からしてトラブルの匂いがプンプンするし。
悪いことは言わないから、止めとけ。
っていうか、アイツを甘やかすなって前から言ってるだろ』
腕を組んで、目の前のテーブルに置かれたシュガーポットを見つめる。
兎の形をしたそれは、とぼけた表情が可愛い。
ことん、と僕の目の前に置かれたのは、翡翠色のマグカップ。
中には、ふんわりと優しい湯気を立てたコーヒーが縁までたっぷり注がれている。
抹茶色エプロンを身に着けた、ちょっと照れくさそうにそっぽを向いている店員さん。
彼の名前は木谷新二(きたに しんじ)くん。
実は彼とは高校生の時からの知り合いだ。
僕の2つ下の彼とは、高校生の時に委員会の仕事を通して知り合ったんだよね。1年しか関わりがなかったものの、部活動に参加しなかった僕にとって、堂々と後輩と呼べる貴重な相手だ。
僕が卒業した後は、年賀状でやり取りする程度の関係だった。
でも、半年前にこのカフェうのはなで、ばったり再会。木谷くんは、このお店の近くにある大学に通う大学生になっていたんだ。
それからは、こうして週に3、4回、ここで顔を合わせるようになった。
木谷くんが僕の前にお手拭きとフォークを並べていく。その手は僕のそれよりもがっちりしていて、男らしい。
高校生の時から思ってたけど、木谷くんって年下に見えないなあ。
僕よりも落ち着きもあるし、背が高いし、スポーツも得意だったし、何よりイケメン。実ちゃんが可愛さも入ったイケメンなら、木谷くんは正統派イケメンって感じかな。上手く言えないけど、女の子が好きそうな男性、というか。
と、まじまじと観察してたら、木谷くんが眉間に皺を寄せて動きを止めてしまった。
木谷くんがぷい、とそっぽを向く。
ん? 待てよ。
木谷くんほどのイケメンなら、彼女の一人や二人、できていてもおかしくない、はず。
高校生の時は男子校だったせいもあるけど、彼女がいるとか、そう言う話は全然聞かなかった。でも、今は共学の大学に通ってるって話だし、流石に彼女がいそうだよね。
彼なら、まともな『恋人同士の付き合い方』を教えてくれるかも!
彼は実ちゃんたちみたいに下ネタを言わないし、言うのも嫌いって言ってたし!
木谷くんが居心地悪そうに身じろぎして、1歩下がる。
僕がそう告げた途端、がっちゃーんと嫌な金属音が鳴り響いた。
木谷くんが持っていたトレイを、床に落としてしまったせいだ。
ぎこちなくそう言うと、木谷くんがのろのろと床に散乱した箸やフォークを拾い始める。僕も慌てて自分の足下に転がったスプーンやフォークを拾った。
拾い集めたフォークたちを木谷くんに差し出したら、彼は何故か1歩後ろに引いてから、おずおずとそれを受け取った。
不思議そうに首を傾げる木谷くんに、僕はそう誤摩化した。
木谷くんはいい子だけど、男同士のカップルのフリをしなくっちゃならなくなった、なんて話をするのはちょっとね。さっきのリアクション以上に驚かれちゃうかも。
声色も、聞いていて心地いいって感じするよ。
あと、木谷くんは普通の顔じゃなくて、イケメンだって思う。
もっと自信、持っていいんじゃないかな?
思ったことをそのまま言ったら、木谷くんが俯いてしまった。
まさか後輩にまで言われるなんて思っていなかったから、地味にショックだ。
俺、付き合うとかそういうの、よく分かんねえですけど、別に変に気取らなくてもいいんじゃないんですか?
恋人になっても、そのまんまの先輩でいてくれたら嬉しい……と思います。
……つ、付き合う相手がそう思うんじゃないか、って話ですけど。
そう尋ねたら、木谷くんはぎょっと目を見開いて固まった。
と思ったら、眉を思い切り寄せて、言いにくそうに口を開いた。
絞り出すように呟く木谷くん。
その言葉を噛み締めながら、僕は想像してみた。
実ちゃんと手を繋ぐ。
子供の頃、よく手を引っ張られてたから、実ちゃんの手の温もりは知ってる。温かくて、力強い手だ。
実ちゃんとデート。
この間の遊びも「デート」だと茶化すように言っていたっけ。
でも、恋人関係ともなれば、行く場所は変わって来るのかも。
人がたくさんいるところじゃなくて、2人きりで話せるところ……とか?
実ちゃんとハグ。
ハグも、子供の頃からよくされてたっけ。後ろからがばって抱きつかれて、頬を擦り寄せてくるのが実ちゃんのハグだ。
でも、それも恋人になったら、違うのかな。
そっと、優しく抱き寄せられる、とか?
実ちゃんとキス。
……なんて、したこと、ない。する訳が、ない!
そこまでが、僕の想像の限界だった。
テーブルに顔面を押し付け、頭に浮かんだいかがわしい映像を振り払う。
ばかばかばか! 僕がするのは『フリ』でしょ!
そんなことはしないよ! 多分!
僕が指摘すると、木谷くんが慌てたようにぶんぶんと首を振った。
消え入りそうな声でそう告げると、木谷くんはそそくさと走り去って行ってしまった。
本当に恋愛の話題が苦手なんだな、木谷くんって。
僕もそんなに得意じゃないから、親近感が増すなあ。同時に、困らせちゃったなあっていう罪悪感もあるけど。
じわり、と頬が熱くなるのを感じた僕は、木谷くんが持って来てくれたコーヒーに口をつけた。うのはなのブレンドコーヒーは、今日もまろやかな酸味で僕を癒してくれる。
今夜も、マイルドな酸味で終わってくれますように。