4-2 エンカウント!
文字数 5,338文字
ビールジョッキをぐいぐい寄せてくる渡辺くん。その笑顔に押されるように、僕は無理矢理唇の端を上げながらノンアルコールビール入りのジョッキを掲げた。
ここ、レストランバー<SHIWASU>を訪れるのは3回目だけど、僕にはあまり良い思い出がない。(主にシュラバ的な意味で)
その上、実ちゃんのアルバイト先という、今の僕にとって回避したい場所だった。
飲むにしても、場所はいつもの居酒屋さんにしてもらおうと思ったんだけど、
と、押し切られてしまい、結局ここに来てしまった。1度オッケーを出してしまった手前、飲みを断るのも申し訳ないからねえ……。
実ちゃんにうっかり遭遇しないかどうか。それを考えるだけで心穏やかになんていられない。
実ちゃんはモデルだけじゃ食べていけないから、ここでバイトしてるって言ってたけど……週にどのくらい働いているかについては聞いたことがないんだよね。
ちらちらと周囲を見てみたけど、お客さんの姿が多くてよく分からない。
ウエイターさんが通り過ぎる度、ビクッとしつつ確認するけど、実ちゃんには今のところ遭遇していない。
でも、ホールじゃなくてキッチンにいる可能性だってある訳だし……。
僕は慌ててジョッキに口をつけた。
うん、この喉ごし、仕事終わりの1杯によく合うなあ。アルコールはてんでダメな僕だけど、ビールのこの喉ごしだけなら好きだ。
ぷはぁ、とビールの余韻に浸っていると、
僕の口から思い切りノンアルコールのビールが噴出され、落ち着いたダークブラウンのテーブルを汚してしまった。
途端に、向こう側のソファー席にいた渡辺くんが「うげえっ?!」と悲鳴を上げて、傍にあったナプキンで手早くテーブルを拭いてくれた。
以前から「お前は分かりやすい」ってよく言われてたから、思いのほかあっさりと「そっか」と言えてしまう自分がいた。
けど、家族や仕事仲間にも僕の落ち込みが伝わっていたのだと改めて知ってしまうと、申し訳なさでいっぱいになる。
な、と渡辺くんが促してくるのを見て、僕は眉を寄せた。
深く考えたくなくて、自分の中に沈めていた実ちゃんとのあれこれ。
こうしてみんなに見えてしまっているのなら、このまま沈めていても意味がないな。
たとえ、誰かに悟られないくらい上手く隠せていたとしても、現状は変わらない。
このままじゃダメなことは、僕だって分かってるから。
胸板をどん、と叩いて爽やかな笑顔を浮かべる渡辺くん。
そんな前置きをしてから、僕は話し始めた。
……と言っても、そのまま語るのはさすがに憚られたので、『恋人ごっこ』云々は言わず、所々ぼかしたけれど。
僕には好きな人がいる。
その人は恋人と別れたばかりで、ずっと恋人がいない僕のことをあれこれ心配してくれてた。最初は全然自覚していなかったんだけど、本当につい最近、その人のことが好きなんだと僕は気づいた。
別れた恋人とのことは吹っ切れたと言っていたんだけど、この前偶然、その恋人が僕の好きな人に未練があるという話を聞いてしまった。
しかも、僕の好きな人も、どうやら元恋人にまだ未練があるらしい。
……と、こんな風に。
できたてほやほやの分厚いフライドポテトをつまみながら、渡辺くんは神妙な顔でふむふむ、と1人頷いている。
こうして話している間も、実ちゃんとエンカウントしてしまうんじゃないか。
そんな不安も混じって、僕は手元のジョッキを無意味にくるくると回してしまう。
ビールジョッキをどん、と置いて、渡辺くんが鼻息荒く問いかけてきた。
好き。その気持ちは確かだ。
でも、「付き合いたいか」と聞かれると。
ありがとう、渡辺くん。
何だかんだで察してくれる君の存在は、仕事でもプライベートでもありがたいと思ってるよ。
そーそー。軽く世間話でもしようぜってノリが大事だな。
んで、気持ちが解れたら、ちょっと本題に踏み込んでみてさ。
まずは相手の今の気持ちをちゃんと聞くこと。否定はせずに、とりあえず受け止めることが大事だな。
んで、それからお前はどうすればいいか、考えてみろよ。どうしても分かんねえってんなら、また俺が飲みながら聞いてやるからさ。
フライドポテトを豪快にかみちぎりながら、渡辺くんはウインクしてグッと親指を立てた。
そーいうこと。恋愛事は自分から動くことが大事だからな。
受け身のまま、勝手にあれこれ考えてたりしてても、何にも変わんねえ。ずっとモヤモヤしたまんまだろ?
そんなん抱えたままじゃ、仕事も捗らねえし、酒も美味くねえからな。
うんうんと頷きながらビールを飲み干すと、渡辺くんはジョッキを持つ右手をぱっと挙げた。
そんな調子で、渡辺くんはハイペースで料理やお酒をお腹に収めていった。酔いが回って「もっと食え」「お前も酒飲もうぜ!」と言ってくるようになった彼を宥めつつ、僕もちまちま料理を楽しんだ。
そして、2人だけの飲み会が始まって1時間も経たない内に、渡辺くんがテーブルに突っ伏してしまった。
力なく首を横に振る僕に、渡辺くんが唐突にがばっと起き上がった。
渡辺くん、美味しそうにジョッキを傾けてるけど、中には1滴も入っていない。
それでも、まるで本当に飲んだみたいにぷはぁ、と満足げな吐息を漏らしたかと思うと、
ぱたん、と糸が切れたように渡辺くんが再びテーブルに突っ伏してしまった。
今度は、盛大な寝息まで聞こえてくる。本当に意識を手放してしまったようだ。
頭を抱える僕をよそに、渡辺くんはすやすやと気持ち良さそうに寝ている。
良い夢見てるのか、目尻も口元もゆるゆるだ。見ているこっちもつられて笑ってしまうくらい、良い寝顔だ。
そんなことを考えていたら、胸の奥がきゅっと苦しくなってきた。
誤摩化すようにお皿に残っていた唐揚げを頬張った瞬間、テーブルに置いていた僕のスマホが微かに振動した。
画面に表示された『実ちゃん』の文字に、心臓が早鐘を打ち始める。
振動はすぐに止み、『実ちゃん』の文字の横に、メールを示す封筒のアイコンが浮かび上がった。
僕はこくん、と咀嚼した唐揚げを飲み込むと、恐る恐るスマホを手に取った。
『生きてる? まだ、モーニングコールとか夜の電話とか、できそうにないくらい忙しいのか?
たまには、声、聞きたいなって思ってるからさ、暇なときでいいから、連絡くれ』
スマホをぎゅっと握りしめながら、僕は改めて店内を見渡した。行き交うウエイターさんの中に、やっぱり実ちゃんの姿は見当たらない。
と、思ったら、その内の1人と視線が合ってしまった。
かしこまりました、と穏やかな笑みを湛えたまま会釈し、ウエイターさんが去って行く。
後ろに括った髪型といい、背格好といい、少しだけ実ちゃんに似ているそのウエイターさんの背中を見送った後、僕はよし、とスマホを操作し始めた。
迷いなく『送信』の文字をタップすると、すぐに『送信完了』と表示された。
その文字にホッと息を吐いた途端、トイレに行きたくなった。ノンアルコールビールやソフトドリンクばかりだけど、僕も結構飲んだもんなあ。
眠っていてもちゃんと返事をしてくれた渡辺くんに苦笑しながら、僕はトイレへ向かった。
『MAN』の文字が刻まれた、薔薇のボードの掛かったトイレのドア。
薔薇を模した金色のドアノブを回した瞬間、ぱしん、と鋭い音が聞こえてきた。
――やっぱり、最初からこんなことしなきゃ良かったんじゃん。
え、この声って。
そう思った時には既に遅く、僕の手はダークブラウンのドアを押し開けてしまっていた。
開かれるドアの向こうで、怒りを滲ませた丸眼鏡の美人――もとい、碧人さんと目が合う。
次の瞬間、碧人さんがまん丸に目を見開いて固まってしまった。
そう漏らす碧人さんの手前で、僕に背を向ける形で立っていたのはすらりとした長身の男。
ゆっくりと振り返ったその人――瞳さんのシナモン色の目が僕を捕らえた瞬間、その眉間に2本の皺が刻まれた。