4-1 恋愛初心者は現実逃避した!

文字数 3,444文字

じゃ、行ってくるね、まぐろ。

にゃ~。

 玄関まで見送りにきてくれたまぐろに、僕は頬を緩ませて存分にその体を撫でてあげる。

 構われるのが嬉しいのか、ごろごろとご機嫌な音を鳴らすまぐろを見ているだけでホッとする。


 同時に、僕の中にずっと張りつめていた緊張の糸の存在を改めて実感してしまった。

……はあ。

ダメダメ。考えないようにしようって、決めたじゃん。


 『モーニングコール』も「今、忙しい時期からしないで欲しい」って言い訳して断ってるし、ポスターへの挨拶だって今はやらないようにしているんだから)


小晴。

お母さん? どうし……あっ。

 こんなに朝早くお母さんの姿を見るのは久しぶり……と思いつつ顔を上げる。

 お母さんがずい、と僕の鼻先に押し付けたのは、黒猫の模様が鏤められた小さな包み。

 僕のお弁当だった。


忘れ物だ。
あ、ありがとう。

やけに凝った弁当だな、ピクニックでもするのか。

あはは、まさか〜。

ちょっと作りすぎちゃっただけだよ。

……お前、何があったか?

っんな、なぁ……にも、ないよ? 急にど、どどどどうしたの?

何かあったんだな。

うっ、な、ないから、ホントに。

お前、悩むと料理に凝る癖あるの、自覚してないのか。

う、嘘っ!

 お弁当を抱えて一歩後ずさりした僕に、お母さんははあ、と小さくため息を吐いた。


……嘘だ。

な、何? その間。

何でもない。母親の茶目っ気を出しただけだ、気にするな。

 小首を傾げて唇の端を上げてみせるお母さん。

 でも、目が全然笑ってないから、笑ってるというより企んでるみたいで、自分の母親ながら不気味に見える。

茶目っ気って……お母さん、二徹しておかしくなっちゃったんじゃ……あでっ。

 僕が言い終わらないうちに、ばちんとデコピンが飛んできた。


減らず口が叩けるんなら、大丈夫だな。心配して損した。

……うん、大丈夫。ありがとう。

 ダメージを受けたおでこを擦りながら、僕はお母さんに精一杯笑ってみせた。

 すると、お母さんは不意に不気味な笑顔を消して、僕の両肩をがっちりと掴んだ。


へ? ……わっ。

 ぐるん、と視界が回転したかと思うと、僕の体は玄関の引き戸の方を向いていた。


いってこい。

うん、行ってきます。

ぽん、と軽く背中を押された僕は、受け取ったお弁当を抱きしめながら、小さく頷いた。

誤摩化せてねーぞ、バカ息子が。

 戸を閉める時、お母さんのため息混じりの呟きが聞こえたけど、僕は気づかないフリをした。










――はい。じゃあ、このデザインでお願いします。ライターさんと打ち合わせ後、またご連絡しますね。

 受話器を置き、僕はほっ、と短く息を吐いた。猫の絵柄のついた付箋に「デザインok」とメモをすると、素早くキーボードに指を滑らせる。

よし。じゃあ次はライターさんに進捗状況の確認をして……あ、その前に、次の編集会議用の資料を作成しないと)

 パソコンに資料を表示させると、僕はキーボードの右横に広げていたお弁当に手を伸ばした。

 どれも箸を使わずにつまめるメニューだから、仕事しながらでも食べられる。今日みたいに編集部から出る用がない日は、やっぱりお弁当が楽だな。

ただいまーっと。

お帰り。

 帰ってきた渡辺くんに、僕はおにぎりのラップを捲りながら返事をした。

って、魚谷、お前、今日デスクに貼り付きすぎじゃね? パソコンの前にいるとこしか見てねえけど。

外出する予定ないからね、今日は。

 視線はパソコンの画面に向けたままそう答えると、おにぎりを一口かじる。

 と、僕の視界にずいっと、眉間に皺を刻んだ渡辺くんの顔が映り込んだ。


ちょ、ちょっと渡辺くん、画面が見えないんだけど。

お前、今の自分の顔、鏡で見てみろよ。すげー顔色悪いぞ。

そう? ご飯も食べられるし、仕事もさくさく進んで調子いいんだけどな。

 渡辺くんの指摘に首を捻りながら、僕はおにぎりをまた一口かじる。

 うん、今日のおにぎりはいつもよりいい出来だ。料理の腕も絶好調みたい。

 けど、渡辺くんは相変わらず険しい顔のままで。


その顔で言われても説得力ねえよ……ちゃんと休憩取ってるか?

取ってるよ。ご飯、ちゃんと食べてるし、家でも猫と戯れてるし。

 至極真面目に言ったつもりだったけど、渡辺くんの眉間に皺がもう1本増えてしまった。

いやいや、お前、もっと身近なとこにあるだろ、癒しスポット。

最近、『うのはな』に全然行ってねえじゃん。お前、どんなに忙しくても、あそこに行く時間作ってたくらい気に入ってただろ。

 渡辺くんの言葉にどきり、と心臓が小さく跳ねるのを感じ、僕は彼からぎこちなく視線を逸らした。

……うん、まあ、そうなんだけど……今は行きたい気分になれないというか。

 歯切れの悪い言い方になってしまったけど、別に嘘を言った訳じゃない。



 最後に僕がカフェを訪れたのは、実ちゃんが家に泊まって行った数日後のこと。


 いつも通り簡単な作業ついでに昼食を取りに行ったら、そこで偶然――だと思いたい――碧人さんに話しかけられたんだ。あからさまに怒っている様子で。

君、ハルから何か聞いてない?

 何かって何ですか、って尋ねたい気持ちはあった。

 でもそれ以上に、碧人さんと話したくない思いの方が強かった。

 あのお泊まりの翌朝。実ちゃんが電話していた相手。それは多分、碧人さんだ。実ちゃんが「瞳の恋人はお前」って言ってたからね。

 その碧人さんと下手に会話して、あの時の実ちゃんの涙の意味を知る羽目になってしまったら。

 僕は、そのことを深く考えたくなかった。少しでも考えてしまったら、あの日気づいて、胸の奥にしまったことを引きずり出してしまいそうで。



 僕は努めて平静に、「知りませんし、最近会ってませんから」とだけ答え、それ以上は話さなかった。

 幸い、碧人さんも追求してくることはなく、「そう」とだけ答えた。

 でも、碧人さんはその後も何か言いたげな視線をずっと向け続けてきたし、事情を知らない木谷くんも何か感じるのか表情を曇らせていて……結局、僕はいたたまれなくなって、その日は逃げるようにカフェを出たんだ。

 そんな訳で、僕はその日以降、カフェに行くのを避けている。






 僕が馴染みの店に行かなくなったなんて、そんな些細なことに気づく人なんていないと思ったんだけど……。

 渡辺くん、僕のことよく見てるなあ。


お前、何かあっただろ。

……何もないよ。

 渡辺くんから視線を逸らしたまま、僕は懸命にそう答える。

 というか、この会話、今朝もお母さんとしたような……。


だから、その顔で「何もない」って言われても。

……ごめん。

いや、謝らなくていいけどさ。

んー……よし、魚谷、今晩、付き合え。

へ?

久しぶりに夕飯一緒に食おうぜ。言っとくけど、お前に拒否権ないからな。

ええっ?!

 思わず視線を戻したら、渡辺くんはさっきの不機嫌そうな顔から一変し、にんまりと笑って目を輝かせていた。

いいだろ、たまには。つか、お前、去年は修羅場越える度に飲みに行ってたのに、最近は全然付き合ってくれてねえじゃん。

今晩くらいいいだろ? 

それとも、何か予定あんのか?

な、ないと言えばない、けど……。

 渡辺くんの誘いをずっと断っていたのは、実ちゃんとの『練習』を優先してきたからだ。

 けど、今は……たとえ誘いがあったとしても、間違いなく避けるだろう。

 それなら、渡辺くんの誘いに乗ろうかな。万一、実ちゃんから誘われた時に、「今日は同僚と飲む約束があるから」って躱せるし。


じゃ、決定だな!

い、いいけど……僕、飲まないからね?

 1年前の歓迎会で、乾杯のビールを飲み干す前に意識を失ったことを思い出しながら僕が言うと、渡辺くんはぐっと親指を立てた。


分かってるって。

お前は好きなだけウーロン茶とジンジャーエールを飲め。俺がお前の分まで、しっかりと飲んでやるからな。

そ、そうだね……。(渡辺くん、単に飲みに行く口実を作りたかっただけじゃ……

で、飲む場所なんだけどさ。実は、営業部の同期にいい店教えてもらったんだ。ここから近いみたいだし、そこ行こうぜ。酒はもちろん、メシも美味いって聞いたから。

まあ、ご飯がおいしいのは重要だよね。じゃ、そこにする?

よっし。じゃあ、<SHIWASU>に決定っ。

……待って、今、<SHIWASU>って言った?

おう。レストランバーで、ダーツもできるんだってさ!

 よりによって、何でそこなの?!

 「俺、ダーツやってみたいって思ってたんだよなあ」と上機嫌で語る渡辺くんとは対照的に、僕は頭を抱えたくなってしまった。


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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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