4-1 恋愛初心者は現実逃避した!
文字数 3,444文字
玄関まで見送りにきてくれたまぐろに、僕は頬を緩ませて存分にその体を撫でてあげる。
構われるのが嬉しいのか、ごろごろとご機嫌な音を鳴らすまぐろを見ているだけでホッとする。
同時に、僕の中にずっと張りつめていた緊張の糸の存在を改めて実感してしまった。
こんなに朝早くお母さんの姿を見るのは久しぶり……と思いつつ顔を上げる。
お母さんがずい、と僕の鼻先に押し付けたのは、黒猫の模様が鏤められた小さな包み。
僕のお弁当だった。
お弁当を抱えて一歩後ずさりした僕に、お母さんははあ、と小さくため息を吐いた。
小首を傾げて唇の端を上げてみせるお母さん。
でも、目が全然笑ってないから、笑ってるというより企んでるみたいで、自分の母親ながら不気味に見える。
僕が言い終わらないうちに、ばちんとデコピンが飛んできた。
ダメージを受けたおでこを擦りながら、僕はお母さんに精一杯笑ってみせた。
すると、お母さんは不意に不気味な笑顔を消して、僕の両肩をがっちりと掴んだ。
ぐるん、と視界が回転したかと思うと、僕の体は玄関の引き戸の方を向いていた。
いってこい。
ぽん、と軽く背中を押された僕は、受け取ったお弁当を抱きしめながら、小さく頷いた。
戸を閉める時、お母さんのため息混じりの呟きが聞こえたけど、僕は気づかないフリをした。
受話器を置き、僕はほっ、と短く息を吐いた。猫の絵柄のついた付箋に「デザインok」とメモをすると、素早くキーボードに指を滑らせる。
パソコンに資料を表示させると、僕はキーボードの右横に広げていたお弁当に手を伸ばした。
どれも箸を使わずにつまめるメニューだから、仕事しながらでも食べられる。今日みたいに編集部から出る用がない日は、やっぱりお弁当が楽だな。
ただいまーっと。
帰ってきた渡辺くんに、僕はおにぎりのラップを捲りながら返事をした。
って、魚谷、お前、今日デスクに貼り付きすぎじゃね? パソコンの前にいるとこしか見てねえけど。
視線はパソコンの画面に向けたままそう答えると、おにぎりを一口かじる。
と、僕の視界にずいっと、眉間に皺を刻んだ渡辺くんの顔が映り込んだ。
渡辺くんの指摘に首を捻りながら、僕はおにぎりをまた一口かじる。
うん、今日のおにぎりはいつもよりいい出来だ。料理の腕も絶好調みたい。
けど、渡辺くんは相変わらず険しい顔のままで。
至極真面目に言ったつもりだったけど、渡辺くんの眉間に皺がもう1本増えてしまった。
渡辺くんの言葉にどきり、と心臓が小さく跳ねるのを感じ、僕は彼からぎこちなく視線を逸らした。
歯切れの悪い言い方になってしまったけど、別に嘘を言った訳じゃない。
最後に僕がカフェを訪れたのは、実ちゃんが家に泊まって行った数日後のこと。
いつも通り簡単な作業ついでに昼食を取りに行ったら、そこで偶然――だと思いたい――碧人さんに話しかけられたんだ。あからさまに怒っている様子で。
何かって何ですか、って尋ねたい気持ちはあった。
でもそれ以上に、碧人さんと話したくない思いの方が強かった。
あのお泊まりの翌朝。実ちゃんが電話していた相手。それは多分、碧人さんだ。実ちゃんが「瞳の恋人はお前」って言ってたからね。
その碧人さんと下手に会話して、あの時の実ちゃんの涙の意味を知る羽目になってしまったら。
僕は、そのことを深く考えたくなかった。少しでも考えてしまったら、あの日気づいて、胸の奥にしまったことを引きずり出してしまいそうで。
僕は努めて平静に、「知りませんし、最近会ってませんから」とだけ答え、それ以上は話さなかった。
幸い、碧人さんも追求してくることはなく、「そう」とだけ答えた。
でも、碧人さんはその後も何か言いたげな視線をずっと向け続けてきたし、事情を知らない木谷くんも何か感じるのか表情を曇らせていて……結局、僕はいたたまれなくなって、その日は逃げるようにカフェを出たんだ。
そんな訳で、僕はその日以降、カフェに行くのを避けている。
僕が馴染みの店に行かなくなったなんて、そんな些細なことに気づく人なんていないと思ったんだけど……。
渡辺くん、僕のことよく見てるなあ。
お前、何かあっただろ。
渡辺くんから視線を逸らしたまま、僕は懸命にそう答える。
というか、この会話、今朝もお母さんとしたような……。
だから、その顔で「何もない」って言われても。
いや、謝らなくていいけどさ。
んー……よし、魚谷、今晩、付き合え。
思わず視線を戻したら、渡辺くんはさっきの不機嫌そうな顔から一変し、にんまりと笑って目を輝かせていた。
渡辺くんの誘いをずっと断っていたのは、実ちゃんとの『練習』を優先してきたからだ。
けど、今は……たとえ誘いがあったとしても、間違いなく避けるだろう。
それなら、渡辺くんの誘いに乗ろうかな。万一、実ちゃんから誘われた時に、「今日は同僚と飲む約束があるから」って躱せるし。
1年前の歓迎会で、乾杯のビールを飲み干す前に意識を失ったことを思い出しながら僕が言うと、渡辺くんはぐっと親指を立てた。
よりによって、何でそこなの?!
「俺、ダーツやってみたいって思ってたんだよなあ」と上機嫌で語る渡辺くんとは対照的に、僕は頭を抱えたくなってしまった。