碧人番外編 〈ウラ・イミテーション〉1.茶番の始まり
文字数 2,577文字
事務所のトイレは、蛇口から零れ落ちる水滴の音がよく聞こえるほど、静かだった。
まるで、ここだけ世界と切り離されているんじゃないかって馬鹿げた錯覚をしてしまいそうになる。
僕は鏡に映る瞳の背中に、再度そう確認する。
瞳は小さく頷いて、メタリックレッドのスマホを取り出したかと思うと、その画面を右隣で鏡を見つめている僕に向けた。
僕はちら、と鏡から左隣へ視線を向け、スマホの画面を凝視する。
一瞬、瞳の横顔も見たけれど、不機嫌そうな表情を浮かべているオフモードの彼だった。
スマホを懐にしまった瞳が、僕の方に向き直ったかと思うと、僕の腰をぐっと掴んで引き寄せた。
1言も発する間も与えられず、下唇にがぶりと噛み付かれた。想定外に痛かったから、反射的に瞼を閉じてしまったのがいけなかった。
調子に乗った瞳の舌が口の中に入ってきて、僕の舌をぬるぬると犯し始める。
しかも息継ぎの度に、上唇や下唇をかぶがぶ噛んでくる。キスというよりも食べられてるみたい。
キスが気持ちいいなんて嘘だ。唇も掴まれたままの腰も痛いし、舌は全身がぞわぞわするくらい気持ちが悪い。
ぐいぐい瞳の胸元を押し返しながら、いっそ股間でも蹴ってやろうかと思った時、遠くでドタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
誰かが、こっちに来る。
そう思う間もなく、ばたん、と勢い良くドアが開く音がした。
足音の落ち着きのなさといい、この勢いのあるドアの開け方といい――瞳の思惑通り、ターゲットが現れたようだ。
……え?
間の抜けたターゲットーーハルの声が聞こえたけど、無駄に背の高い瞳に阻まれて彼の姿を見ることができない。キスも止まらない。
でも、ハルが瞳と僕のキスを見ている、と認識した瞬間、僕はジン、と震えるような強い興奮を覚えた。僕の口の中を蹂躙し続ける瞳の舌や無遠慮に唇に噛み付く歯が、気持ちいい。
そう認識した途端、動かすつもりのなかった僕の舌が、瞳を求めて動き出す。
っ何やってんだよ、瞳!
けど、覚えたての快感は、ハルの怒声に掻き消されてしまった。
唐突に解放された僕は、酸素をスムーズに取り込めずに派手に咳き込んだ。その間に、瞳は僕に背中を向けた……ようだ。
見て分からないか?
碧人とキスしていたんだ。
そういうことを聞いてるんじゃねえ!
何で、碧人とっ!
そんな会話を聞いているうちに呼吸が落ち着いた僕は、瞳の後ろから顔を出し、ハルの姿をようやく視界に入れることができた。
赤い目をまん丸に見開いて、こっちをびしっと指差すハル。その小柄な体はぷるぷると生まれたての小動物みたいに震えている。
声は怒り100%って感じだったけど、表情はどちらかと言うと泣きそうだ。
心の中でこっそりと呟く僕をよそに、瞳がふん、と鼻を鳴らした。
そう言って、瞳は僕の腰を乱暴に掴んだかと思うと、ハルに見せつけるように抱き寄せた。
その途端、僕の胸の内から込み上げて来たのは、吐き気を催しそうなくらいの嫌悪感。瞳の付けている甘ったるい香水のせいか、それとも、キスの時同様、僕の腰を掴む瞳の手の力が容赦なく痛いからか。
理由ははっきりしないけど、これだけは分かる。
演技じゃなかったら、その無駄に整っている顔をグーで殴りたい。思い切り。
そう言って、瞳が僕の顎を掴んできたからたまらない。
さっきのキスの二の舞はごめんだと、僕はわざと瞳に抱きついて、その胸元に顔を埋めた。
碧人。
僕を呼ぶ瞳の声は、腹が立つくらい甘い。
けど、その甘い声に反して、僕の腰を掴む手は更に強くなった上に、抓ってきた。
キスに応じろって言いたいんだろうけど、嫌なものは嫌だ。
抓りと言う名の抗議を無視し、僕は顔を上げてハルの方を見た。
ちげーだろ!と歯を剥き出しにして怒るハルの声がうるさい。
怒っていない時でも、ハルってうるさいんだよね。できるなら関わりたくない人種なんだけれど。
ぎゃんぎゃん喚くハルの言葉をスルーしつつ瞳を見上げると、何と、これ以上ないくらい楽しげに笑っている彼の姿があった。
気がついたら、ハルがそんなことを言い始めていた。
……まあ、十中八九嘘だと分かるよね。本命がいるって言う割りに、やっぱり泣きそうな顔をしてるし。
あーあ……何だか面倒くさそうな方向になってきちゃった。
この「ごっこ遊び」、瞳の予想通り、簡単に終わりそうにないな。
ハルと瞳が本当に別れようが、元サヤに戻ろうが、僕にはどうでも良い話だ。
僕はただ、仕事をしているだけに過ぎないんだから。