2-2 キス(初心者編)
文字数 4,149文字
真っ暗な世界で、唐突に僕の重なった唇から漏れたのは、実ちゃんの声。
少し掠れたその声に、僕は全身にびりびり、と電流が流れたような衝撃を受けた。
顔を背けようと、僕は必死で首を動かしてみるけど、全然動かない。ついでに、瞼も接着剤でくっつけられてるんじゃないかって思っちゃうくらい、開けられない。
何コレ、実ちゃんにキスされながら金縛りに遭ってるの、僕。
どすん、と自分の胸に落ちてきた衝撃に、僕は思わず悲鳴を上げた。
ぱち、とあっさり開いた瞼の向こうは、ノートパソコンが置かれた学習机と、椅子に掛かっている通勤用のリュックサック――僕の部屋だ。
はーはーと荒い息を吐く僕の胸元では、甘えた声を出す実ちゃん……ではなく、まぐろがいた。
カーテンから差し込む朝日に、僕はほぅ、と息を吐く。
ぶんぶんと首を横に振っていると、まぐろが前足でペチペチ、と僕の胸元を叩く。
ご飯の催促だっていうのは、分かってる。
でも、いつもよりソフトな叩き方に感じるせいか、僕を心配してくれているようにも思えてきた。
まぐろを撫でながら、僕は昨日の別れ際、十回目のキスをした後の実ちゃんとの会話を思い返す。
何気なくそう口に出した途端、全身がカッと熱を帯びた。
僕の人差し指を噛んだまぐろが、じとーっとこちらを見つめる。
乱暴な撫で方をされたのに僕の胸から退かないのは、ご飯を待っているからかな。
僕に抱き上げられたまぐろは、逃げることなく不思議そうにこちらを見ている。
そんな可愛いまぐろに僕はニッコリ微笑んで、自分の唇を近づけた。
時は進んで、ランチタイム中のカフェ『うのはな』にて。
窓際の席で、僕が腕を組んで一人ウンウン唸っていると、木谷くんに呼びかけられた。
僕の前におしぼりとお水を置いた木谷くんが、訝しげな視線を向けてくる。
胴体の長いネコの絵がでかでかとプリントされた絆創膏を擦りながら、僕は乾いた笑いを零した。
イラストは子供っぽいけど、色は肌色で地味だし、貼ったまま会社に行ってもギリギリセーフかなと思ったんだ。
でも、同僚の渡辺くんには会った瞬間、「お前、よりによってそれかよ……」ってドン引きされてしまった。
更に、編集長には、
木谷くんが意味有りげに唇の端を上げて、コーヒーを僕の前に置いてくれた。
深い意味はないと言うけど、ドジな先輩だと笑われちゃった気がする。彼には高校生の時にも情けないところを色々見られちゃってるから、今更だけど。
テーブルに広げていたノートパソコンに視線を移し、僕は深々とため息を吐いた。
緊張のあまり、つい『キス』だけ小さな声になってしまった。
でも、木谷くんにはバッチリ聞こえてたみたいだ。
木谷くんは耳まで真っ赤になったかと思うと、ずざーっと僕から距離を取った。
その彼のリアクションを見たら、僕もか〜っと頬が熱くなってきてしまって、
やっぱり言うんじゃなかった。結局木谷くんを困らせてるじゃないか。
心の中で反省していると、木谷くんが咳払いを一つして、僕に近づいてきてくれた。
木谷くんが思い切り僕から視線を逸らしながら、たどたどしく言う。
『キス』が小声になるのはさっきの僕と同じで、少し親近感が沸いた。
ちなみに、パソコンの中にある原稿は『少女漫画から学ぶ! ロマンチックなキスシーン』。これを企画した時は、まさか従兄弟とキスをする羽目になるなんて、思いもしなかった。
当然、今朝送られてきた原稿にも『キス』の文字や、そこに至るまでのシチュエーションが事細かに書かれている。
最初の数行だけ読んで、朝からパソコンの前で悶える羽目になった人〜?
はい、僕です。
精一杯答えたつもりだったけど、木谷くんは眉を寄せて不安そうに僕を見つめている。
高校生の時からそうだったけど、本当にいい子だ。
僕、先輩なのに、何かと木谷くんに心配してもらっていた気がする。僕がドジをやらかす度に、木谷くん、よくこういう表情してたっけ。
絶好調だった僕の話を遮ったのは、木谷くんの必死の『ハンバーグ』だった。
その声で我に返った僕は、ようやく木谷くんが真っ赤な顔でぷるぷる震えている状態だということに気づいた。
勢いよく頭を下げたかと思うと、木谷くんは真っ赤な顔のままキッチンへ駆け出して行ってしまったのだった。