2-2 キス(初心者編)

文字数 4,149文字

ん……。

 真っ暗な世界で、唐突に僕の重なった唇から漏れたのは、実ちゃんの声。

 少し掠れたその声に、僕は全身にびりびり、と電流が流れたような衝撃を受けた。

(ダメ……っ、息、苦しい……し、死んじゃうっ)

 顔を背けようと、僕は必死で首を動かしてみるけど、全然動かない。ついでに、瞼も接着剤でくっつけられてるんじゃないかって思っちゃうくらい、開けられない。

 何コレ、実ちゃんにキスされながら金縛りに遭ってるの、僕。


(ちょ、ちょっとお! し、死んじゃうってば! 実ちゃん!!)
にゃ〜。
うひゃっ?!

 どすん、と自分の胸に落ちてきた衝撃に、僕は思わず悲鳴を上げた。

 ぱち、とあっさり開いた瞼の向こうは、ノートパソコンが置かれた学習机と、椅子に掛かっている通勤用のリュックサック――僕の部屋だ。

 はーはーと荒い息を吐く僕の胸元では、甘えた声を出す実ちゃん……ではなく、まぐろがいた。


(……何だ。夢か……)

 カーテンから差し込む朝日に、僕はほぅ、と息を吐く。


(良かった、夢で。夢ならキスされてもノーカンだよね!)
 と暢気に考えた直後、僕は両手でバンっ、と顔を覆った。
って、ダメじゃん!! 

何で夢の中まで実ちゃんとキスしてるんだよ、僕は!

 ぶんぶんと首を横に振っていると、まぐろが前足でペチペチ、と僕の胸元を叩く。

 ご飯の催促だっていうのは、分かってる。

 でも、いつもよりソフトな叩き方に感じるせいか、僕を心配してくれているようにも思えてきた。

……まぐろ、どうしよう。

僕、次に実ちゃんと会う日が憂鬱に感じちゃってるよ……。

デートかあ……。

『練習』って言ってたけど、その時もやっぱりキスされるのかな。

今度はちゃんとできるようにしとけって言われたし……。

 まぐろを撫でながら、僕は昨日の別れ際、十回目のキスをした後の実ちゃんとの会話を思い返す。


次のお前の休みに合わせてやるから、丸一日デートしようぜ!


デ、デートぉ……?

恋人って言ったら、やっぱりデートだろ? 

デートならキスより難易度低いし、恋愛初心者のお前でも行けるって。

そういうところから雰囲気掴んで、慣らしていこうぜ。


で、できるかなあ……?
かなあ、じゃなくて、するんだよ。セッティングは任せとけ。

お前は気合いはいらねーから、マトモな格好をしてくるのと、鼻で息する練習をすること。特に服装は絶対だからな! 絶対気合い入れんなよ?!

う、うん……?

(デートなのに、気合い入れちゃダメなの?)

 と言う訳で、僕は次の休日に丸々一日デートする約束を、一方的に取り付けられてしまったのです。

まあ、ずっとキスされるよりは心臓に優しいけど……さあ。

それでも、実ちゃんが傍にいるってことに変わりはないし。

恋人同士のフリをするってことは、また手を繋いだり、ハグされたりするのかな……。

 何気なくそう口に出した途端、全身がカッと熱を帯びた。


い、いやいやいやっキスされる方がもっと恥ずかしいじゃん! 

キスに比べたら、手を繋ぐのもハグも全然恥ずかしくないよっ! 

うん、全然大丈夫! よゆーよゆー!

しゃーっ!
痛ぁっ?! 

ご、ごめん、まぐろ。乱暴に撫でちゃって。

 僕の人差し指を噛んだまぐろが、じとーっとこちらを見つめる。

 乱暴な撫で方をされたのに僕の胸から退かないのは、ご飯を待っているからかな。


まぐろの口はちっちゃくて可愛いね。

 僕に抱き上げられたまぐろは、逃げることなく不思議そうにこちらを見ている。

 そんな可愛いまぐろに僕はニッコリ微笑んで、自分の唇を近づけた。


しゃーっ!
うぎゃあっ?!
初めてのまぐろとのキス(未遂)は、とっても痛かったです。まる。




 時は進んで、ランチタイム中のカフェ『うのはな』にて。


いらっしゃいませ、魚谷先輩。

 窓際の席で、僕が腕を組んで一人ウンウン唸っていると、木谷くんに呼びかけられた。


あ、木谷くん。こんにちは。
ども。あの……額のど真ん中、どうしたんすか?

 僕の前におしぼりとお水を置いた木谷くんが、訝しげな視線を向けてくる。


ああ、これ? 朝、飼い猫にバリッとされちゃって……。

まあ、自業自得なんだけど。

……普通の絆創膏はなかったんですか?
それが、家にあった大きな絆創膏がこれくらいしかなくて……。

 胴体の長いネコの絵がでかでかとプリントされた絆創膏を擦りながら、僕は乾いた笑いを零した。

 イラストは子供っぽいけど、色は肌色で地味だし、貼ったまま会社に行ってもギリギリセーフかなと思ったんだ。

 でも、同僚の渡辺くんには会った瞬間、「お前、よりによってそれかよ……」ってドン引きされてしまった。

 更に、編集長には、

君らしいセンスだね。君以外で似合う人はなかなかいないんじゃないかな。
 って笑われちゃうし……会社に戻る前に、普通の絆創膏を買っていこう。
先輩らしいっすね。
え、それどういう意味?
別に、深い意味はないっす。

 木谷くんが意味有りげに唇の端を上げて、コーヒーを僕の前に置いてくれた。

 深い意味はないと言うけど、ドジな先輩だと笑われちゃった気がする。彼には高校生の時にも情けないところを色々見られちゃってるから、今更だけど。


仕事してたんですか? ノートパソコン持ち込みって珍しいっすね。
あ、うん。

職場だと全然捗らなくて……場所を変えたら、ちょっとは進むかなって思って。

 テーブルに広げていたノートパソコンに視線を移し、僕は深々とため息を吐いた。


(でも、全然ダメだ。折角速筆のライターさんが書き上げてくれた原稿なのに、どうにもこうにも頭に入ってこないよ……)
何か、苦戦してるっぽいですね。
うーんと……苦戦というか、勝負前の段階で戦意喪失しちゃってる感じかな……。
モチベーションの問題っすか?
やる気はあるんだよ、やる気は。

だから、余計に困ってるんだよね。

一旦休憩して、メシでも食ったらどうです? 

今日は和風ハンバーグと、五穀米カレーから選べますよ。

……あのさ、木谷くん。
はい?
 不思議そうに首を傾げる木谷くんに、僕は出しかけた言葉を口に含んだまま、少し躊躇ってしまった。
(この間も、変なこと聞いて困らせたしなあ……でも、このまま一人で悶々してても何も進まないし……)
先輩?
……あ、あのさ。木谷くんって、キスしたことある?

 緊張のあまり、つい『キス』だけ小さな声になってしまった。

 でも、木谷くんにはバッチリ聞こえてたみたいだ。

 木谷くんは耳まで真っ赤になったかと思うと、ずざーっと僕から距離を取った。

 その彼のリアクションを見たら、僕もか〜っと頬が熱くなってきてしまって、


っご、ごめん! やっぱり聞かなかったことにして!
っむ、無理っす! そう言われると、却って気になりますよ!
た、確かに……。

 やっぱり言うんじゃなかった。結局木谷くんを困らせてるじゃないか。

 心の中で反省していると、木谷くんが咳払いを一つして、僕に近づいてきてくれた。


俺は、経験ないです。つか、付き合ったこともないのに、ある訳ねーじゃないですか。
あ、そっか。普通、恋人いないとしないよね。
恋愛対象じゃない相手とはしないと思いますよ。少なくとも日本では、ですけど。
そ、そうだよね〜……。
(アリだからできるって実ちゃんは言ってたけど、誰も彼もがそんな考えじゃないよね……少なくとも僕は、木谷くんと同じ感覚だな)
それが、先輩の悩んでいたこと、なんすか?
え?
だから、その……き、キスのこと、で……。

 木谷くんが思い切り僕から視線を逸らしながら、たどたどしく言う。

 『キス』が小声になるのはさっきの僕と同じで、少し親近感が沸いた。


うん、まあ、そんな感じ。仕事のことだから、詳しくは言えないんだけどね。

 ちなみに、パソコンの中にある原稿は『少女漫画から学ぶ! ロマンチックなキスシーン』。これを企画した時は、まさか従兄弟とキスをする羽目になるなんて、思いもしなかった。

 当然、今朝送られてきた原稿にも『キス』の文字や、そこに至るまでのシチュエーションが事細かに書かれている。

 最初の数行だけ読んで、朝からパソコンの前で悶える羽目になった人〜?

 はい、僕です。

この前も、似たようなこと言ってましたよね。恋人同士の付き合い方がどうとか。

もしかして、それも関係してます?

えっ?! っと……関係あるといえばある……かなあ?
先輩、何か変なことに巻き込まれてませんか?
う、ううん! それは大丈夫……だと思う。うん、大丈夫!
……ますます心配になるんですけど。

 精一杯答えたつもりだったけど、木谷くんは眉を寄せて不安そうに僕を見つめている。

 高校生の時からそうだったけど、本当にいい子だ。

 僕、先輩なのに、何かと木谷くんに心配してもらっていた気がする。僕がドジをやらかす度に、木谷くん、よくこういう表情してたっけ。


た、確かに苦手分野だけど……仕事だから、乗り切らないとね。
そ、そうすか。
うん。だから、ここで躊躇ってちゃいけないよね。

むしろ、ガンガントークできるくらいに耐性つけないと!

ガンガン、すか……?
たとえば……木谷くんはさ、どういうキスがしたい? 理想ってある?
はっ?!
 目を丸くする木谷くんに、僕は企画を練っていた頃を思い出しながら話を続けた。
キスってやっぱり、恋愛における大イベントの一つだと思うんだよね、二次元でも現実でもさ。

ただすればいい、ってものでもないと思うんだよ。

あ、あの……。

海外では、挨拶って意味もあるけど、まあ、それは置いておいて。

個人の好みやこだわりを考えると、恋愛におけるキスのパターンは無限大にあると思うんだ!

せ、先ぱ……。
あと、キスって、する時の雰囲気が重要だと僕は思うんだ! 

どこでするか、どの時間帯にするか、どっちからするかとか――。

……っハンバーグ!

 絶好調だった僕の話を遮ったのは、木谷くんの必死の『ハンバーグ』だった。

 その声で我に返った僕は、ようやく木谷くんが真っ赤な顔でぷるぷる震えている状態だということに気づいた。


……は、ハンバーグ?
そ、そう……今日のランチ、は……ハンバーグがすげーお勧めなんです……。
そ、そっか……じゃあ、それをもらおっかな……。
り、了解っす。

 勢いよく頭を下げたかと思うと、木谷くんは真っ赤な顔のままキッチンへ駆け出して行ってしまったのだった。


……ごめん。
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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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