1-10 シュラバの後は甘じょっぱい

文字数 4,351文字

飽きた。

ここまでだな。

 不意に聞こえてきた、瞳さんの冷ややかな声音。

 僕ははっとすると同時に、自分がバーカウンターに突っ伏して眠っていたことに気がついた。いつの間に眠っていたんだろうか。

 慌てて振り向くと、こちらへ向かって歩いてくる瞳さんの姿があった。

待たせたな、碧人。行くぞ。

 振り返ることもなく、黙々と本を読んでいる碧人さんに向かって、そっと手を差し出す瞳さん。

 すると碧人さんは本を閉じて、ゆっくりと瞳さんの方を振り返った。

 と、同時に、瞳さんの体がぐい、と後ろへ引っ張られる。

 背後からやってきた実ちゃんが、瞳さんの腕を掴んだせいだ。

待てよ! 何勝手に終わらせてるんだよ!

 ダーツ勝負前と変わらず、実ちゃんの声のボリュームは大きい。

 でも、眉は困ったように下がっているし、瞳さんの肩を掴んでいる手はがたがたと震えている。

 そんな実ちゃんを、瞳さんはじろり、と冷ややかに見下ろした。


続けても、結果は同じだ。素直に負けを認めろ、ハル。
認めるかよ! 俺は、まだ諦めてねーんだからなっ!
お前がそうでも、俺は違う。これ以上、恋人を放置しておく訳にもいかないしな。
……っ、俺は……お前と別れたつもりは。

いい加減、認めろ。

俺とお前はもう、恋人じゃない。

俺の恋人は、碧人だけだ。

 その言葉に、びくん、と実ちゃんの体が大きく跳ねた。

 それが合図だったかのように、瞳さんの腕を掴んでいた実ちゃんの手が力なく下ろされる。

 腕が解放されても、瞳さんは動かずに、じっと実ちゃんを見つめていた。


……何で、俺じゃなくて、碧人を選ぶんだよ。俺が……売れなくなったからか……?
恋愛(プライベート)に仕事のことは関係ない。

より恋愛感情を持って接することができる相手が誰なのか。

俺にとって、それが碧人だった、という話だ。

……何だよ、それ。

分からないか。

なら、はっきり言ってやる。

俺は、今のお前に魅力を感じない。仕事仲間としても、ライバルとしても、恋人としても、だ。

このまま惰性で恋人関係を続けていても、意味はない。

……。

勝者は敗者に言うことを聞かせることができるルール、だったな。

ハル、俺と別れることを受け入れろ。

 瞳さんにはっきりとそう告げられた瞬間、実ちゃんが泣き出しそうな表情を浮かべた。

 今日はずっと怒ってるか、自信満々に笑っているかのどちらかだったのに。


碧人。
分かった。……じゃあね。

 碧人さんがちらり、と僕を一瞥し、瞳さんの左腕に抱きつく。

 その碧人さんの頭を軽く撫でると、瞳さんは僕を見た。

 曇りのない綺麗な目だけれど、僕には怖いもののように思えてしまう。


あ、あの……っ。
お前も、時間は有効に使え。

 吐き捨てるように告げると、瞳さんは碧人さんと共にお店を出て行ってしまった。

 彼らが残して行ったのは、僕の目の前で静かに項垂れている実ちゃん。

 僕はその姿を目の当たりにしても、慰めの言葉が1つも思い浮かばず、しばらくその場から動くことができなかった。





(……仕事以外の理由で家に帰れないのって、いつぶりだろう……)

 夜の色に包まれた住宅街を歩きながら、僕はぼんやりとそんなことを考える。

 そんな僕の左隣では、俯き加減で歩く実ちゃんがいる。


 瞳さんたちと別れた後、居たたまれなくなった僕は実ちゃんの手を引いて<SHIWASU>を後にした。

 終電にはまだ程遠い時間だったけれど、明日も仕事の予定がギッチリ詰まっている。本当ならすぐにでも電車に乗って、早く家に戻らなくちゃいけない。

 でも、今の実ちゃんを放っておくことが、僕にはどうしてもできなくて。


……電車、間に合いそうにないや。悪いけど、今晩は泊めてくれる?
 と、店を出ると同時に、僕は実ちゃんにそう告げていた。

 それに対し、実ちゃんはただ静かに頷いただけで、何も言わなかった。

(思わずあんなこと言っちゃったけど……でも、仕方ないよね。

あそこで、「じゃあ、お疲れ!」ってあっさり別れるのは、いくら何でもあんまりというか……)

……ねえ、実ちゃ……。

 ぐるるるるる。


 気まずい雰囲気をぶちこわすかのようなコミカルな音に、僕はぎょっとした。

……腹減った。
あ……そっか。お店で全然食べなかったもんね。
何か、食いたい。
そうだねえ、実ちゃん家に着くまで、もうしばらく歩くし……。
あ、じゃあコンビニ寄ろう。で、食べながら帰ろう。

 ちょうど手前にあったコンビニを目にした途端、僕のお腹も遅れてぐぅ、と鳴った。





は〜……あんまん、美味し〜……。

 コンビニで買ったほかほかのあんまんの甘さに、僕は思わずうっとりとする。

 昔は学校帰りのおやつに、今は会社に泊まり込んだ時や徹夜する時の夜食に。

 僕がコンビニで買うのはいつもあんまんだ。餡子、好きなんだよね。



……んまい。

 僕の隣でピザまんを頬張った実ちゃんが、小さく呟く。

 僕があんまんで、実ちゃんがピザまん時々肉まん。

 で、違う味を食べたくなった時に交換する。

 これが昔からの、僕らの定番。

 僕も、多分実ちゃんも。その『定番』を意識してそれぞれ買った訳じゃない。

 今日、僕はたまたまあんまんを食べたくなって、実ちゃんもピザまんを選んだだけ。

 偶然なんだけど、定番の組み合わせになったことに、僕は密かに嬉しさを感じていた。


コンビニのあんまんって、やっぱり夜に食べ歩くのが1番美味しいよね。
ん……。
あんまんも食べる?

 そっとあんまんを差し出すと、実ちゃんがちら、と僕を見た。

 感情がすっぽり抜けてしまっていて、何を考えているか全然分からない。

 その眼差しもどこかぼんやりしている。


 と、思っていたら、急に実ちゃんの顔が近づいてきた。

 思わず固まる僕の、左手に持っていたあんまんが1口かじられる。


お、美味しい?
……うん。

 こくり、と実ちゃんが頷く。

 それと同時に、その目からぼろっと大粒の雫が零れ落ちた。


さ、実ちゃん?
……餡子、しみたあ。
 ぽろぽろ零れ落ちる涙をそのままに、実ちゃんが眉を寄せる。
俺って、瞳の何だったんだろ。
恋人、だったんだなって僕は思ったよ。

2人とも、終始ピリピリしてたけど、言葉の端々や態度からそういう風に感じたから。

……。
瞳さんがどうして碧人さんを選んだのか、僕にも分からない。

でも、実ちゃんが瞳さんに本気だったってことは、よーく分かったよ。

振られても諦められなくて、あんな風に相手に食い下がったの、初めてじゃない?

 ボロボロ泣きながら、実ちゃんがじーっと僕を見つめる。

 至近距離から見つめられて、僕の心臓が今までにないくらいの大音量でドキドキしてる。

 普段なら一刻も早く距離を取りたいところだ。


 でも、今はこの距離から実ちゃんを見ていたかった。

 たとえ、心臓が激しく鳴りすぎて、壊れてしまったとしても。

僕に恋人役しろって無茶苦茶なお願いしたのも、瞳さんへの本気の気持ちからだったんだよね。

必要性はあんまり感じなかったけど……。

こんなこと言うと、実ちゃんは怒るかもしれないけど……僕は今日、来て良かったって思ったよ。

今までは、ノロケ話を聞くだけだったじゃない? 

シュラバだったけど、実際に実ちゃんが好きな人に向かっていくところを見たのは、今日が初めてだったし。レアな体験だったかもって。

……何だ、それ。

僕、実ちゃんみたいに誰かを好きになったことがないから、この年になっても、恋愛がどういうものなのか、正直分からないんだよね。

したいなって気持ちはあるんだけど、相手もいないし恋愛をするっていう感覚も分からないしで……全然ダメダメでさ。


だから、僕のすぐ傍で一生懸命恋愛してる実ちゃんの存在は、色んなことを教えてくれてるんだなって、今日改めて思ったんだ。

そう言う人って、なかなかいないし。大切だと思うんだよね。

 はむ、とあんまんを頬張る。

 実ちゃんを泣かせた餡子の甘みは、僕にはとっても美味しく感じられた。


大切って、アホか。

お前はただ俺のワガママに巻き込まれただけじゃんかよ。

死んでも嫌だったら、もうとっくの昔に断ってるって。
嘘だ、お前お人好しだし。

ノーって言えない典型的な日本人だし。

そうだけど。

でも、恋をする実ちゃんが僕にとって大切、っていうのは本当だよ。

昔からさ、実ちゃんは僕より先に色んなことができたし、色んなことを経験してたでしょ。

そういうキラキラした実ちゃんの姿を見てるとさ、僕も頑張れるんだ。

恋愛も同じだよ。

ノロケでも失恋の愚痴でも、恋に一生懸命な実ちゃんが、僕にはキラキラに見えるんだ。

……っばか、だし、変だよ、お前……。
色んな人に言われるよ、変だって。

でも、子供の頃から根付いてる思いだからねえ。

今更変えられないし、変えるつもりもないよ。

 くしゃくしゃに顔を歪めた実ちゃんの目尻から、また涙が溢れ出す。

 僕はそんな実ちゃんににっこり笑って、その肩をとんとん、と叩いた。


泣くだけ泣いたら、きっとスッキリするよ。

お疲れさま、実ちゃん。

……っ。

 ふらり、と実ちゃんが1歩近づく。


 昔からそうだった。

 悲しくなると、実ちゃんは僕に抱きついて泣き続ける。

 中学生までは、何とも思わなかった習慣。

 でも、例の動悸が起こるようになった高校生の時は、僕にとってちょっぴり苦手な展開になってしまった。

 まあ、それでも頑張って受け止めてたんだよね。

 ばくばくする自分の胸の音を聞きながら、早く実ちゃん泣き止むことを祈ってた。


 今も、実ちゃんが近づく度に音がうるさくなるし、体に力が入ってしまう。

 でも、久しぶりだし、今日は頑張って僕の方から抱きしめてあげよう。

 そう思って、僕は両腕をゆっくり広げてみせた。


 ――よりによって、自分から受け入れる体勢を作ったこと。

 それが後の事態を引き起こす要因になったかもしれない、と数時間後の僕は思う。


ん?

 僕の唇に触れたのは、しょっぱいチーズと甘いミートソースの香り。

 背中に回ると思っていた実ちゃんの手は、僕の肩をぎゅっと掴んでいる。その力強さは、恋人のフリで手を繋いだ時を思わせた。

 目の前には瞼を閉じた実ちゃんの顔。

 こんな至近距離で実ちゃんの顔を見るなんて、生まれて初めてだった。


……あ、悪い。

つい、したくなって。

……。
……小晴? 


って、おい、小晴!

 どしん、と派手な音がしたかと思うと、臀部にじんじん、と嫌な痛みが広がる。

 目の前でしゃがんだ実ちゃんが僕を必死に揺さぶるけど、声が全然出ない。

 それどころか、目の前がすーっと霞んでいく。


今の、何? 

口と口がくっついて……あれ、今の、キス 

何で? 何で僕は実ちゃんとキスしたの?

あー……夢だ。うん、今までの全部夢だよ。

ほら、目の前が真っ白になっていくし。

変な夢だなあ、あはははは……はは……

ちょ、変な笑い方しながら意識失うな、小晴〜!
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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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