1-10 シュラバの後は甘じょっぱい
文字数 4,351文字
不意に聞こえてきた、瞳さんの冷ややかな声音。
僕ははっとすると同時に、自分がバーカウンターに突っ伏して眠っていたことに気がついた。いつの間に眠っていたんだろうか。
慌てて振り向くと、こちらへ向かって歩いてくる瞳さんの姿があった。
振り返ることもなく、黙々と本を読んでいる碧人さんに向かって、そっと手を差し出す瞳さん。
すると碧人さんは本を閉じて、ゆっくりと瞳さんの方を振り返った。
と、同時に、瞳さんの体がぐい、と後ろへ引っ張られる。
背後からやってきた実ちゃんが、瞳さんの腕を掴んだせいだ。
ダーツ勝負前と変わらず、実ちゃんの声のボリュームは大きい。
でも、眉は困ったように下がっているし、瞳さんの肩を掴んでいる手はがたがたと震えている。
そんな実ちゃんを、瞳さんはじろり、と冷ややかに見下ろした。
その言葉に、びくん、と実ちゃんの体が大きく跳ねた。
それが合図だったかのように、瞳さんの腕を掴んでいた実ちゃんの手が力なく下ろされる。
腕が解放されても、瞳さんは動かずに、じっと実ちゃんを見つめていた。
瞳さんにはっきりとそう告げられた瞬間、実ちゃんが泣き出しそうな表情を浮かべた。
今日はずっと怒ってるか、自信満々に笑っているかのどちらかだったのに。
碧人さんがちらり、と僕を一瞥し、瞳さんの左腕に抱きつく。
その碧人さんの頭を軽く撫でると、瞳さんは僕を見た。
曇りのない綺麗な目だけれど、僕には怖いもののように思えてしまう。
吐き捨てるように告げると、瞳さんは碧人さんと共にお店を出て行ってしまった。
彼らが残して行ったのは、僕の目の前で静かに項垂れている実ちゃん。
僕はその姿を目の当たりにしても、慰めの言葉が1つも思い浮かばず、しばらくその場から動くことができなかった。
夜の色に包まれた住宅街を歩きながら、僕はぼんやりとそんなことを考える。
そんな僕の左隣では、俯き加減で歩く実ちゃんがいる。
瞳さんたちと別れた後、居たたまれなくなった僕は実ちゃんの手を引いて<SHIWASU>を後にした。
終電にはまだ程遠い時間だったけれど、明日も仕事の予定がギッチリ詰まっている。本当ならすぐにでも電車に乗って、早く家に戻らなくちゃいけない。
でも、今の実ちゃんを放っておくことが、僕にはどうしてもできなくて。
それに対し、実ちゃんはただ静かに頷いただけで、何も言わなかった。
ぐるるるるる。
気まずい雰囲気をぶちこわすかのようなコミカルな音に、僕はぎょっとした。
ちょうど手前にあったコンビニを目にした途端、僕のお腹も遅れてぐぅ、と鳴った。
コンビニで買ったほかほかのあんまんの甘さに、僕は思わずうっとりとする。
昔は学校帰りのおやつに、今は会社に泊まり込んだ時や徹夜する時の夜食に。
僕がコンビニで買うのはいつもあんまんだ。餡子、好きなんだよね。
僕の隣でピザまんを頬張った実ちゃんが、小さく呟く。
僕があんまんで、実ちゃんがピザまん時々肉まん。
で、違う味を食べたくなった時に交換する。
これが昔からの、僕らの定番。
僕も、多分実ちゃんも。その『定番』を意識してそれぞれ買った訳じゃない。
今日、僕はたまたまあんまんを食べたくなって、実ちゃんもピザまんを選んだだけ。
偶然なんだけど、定番の組み合わせになったことに、僕は密かに嬉しさを感じていた。
そっとあんまんを差し出すと、実ちゃんがちら、と僕を見た。
感情がすっぽり抜けてしまっていて、何を考えているか全然分からない。
その眼差しもどこかぼんやりしている。
と、思っていたら、急に実ちゃんの顔が近づいてきた。
思わず固まる僕の、左手に持っていたあんまんが1口かじられる。
こくり、と実ちゃんが頷く。
それと同時に、その目からぼろっと大粒の雫が零れ落ちた。
ボロボロ泣きながら、実ちゃんがじーっと僕を見つめる。
至近距離から見つめられて、僕の心臓が今までにないくらいの大音量でドキドキしてる。
普段なら一刻も早く距離を取りたいところだ。
でも、今はこの距離から実ちゃんを見ていたかった。
たとえ、心臓が激しく鳴りすぎて、壊れてしまったとしても。
こんなこと言うと、実ちゃんは怒るかもしれないけど……僕は今日、来て良かったって思ったよ。
今までは、ノロケ話を聞くだけだったじゃない?
シュラバだったけど、実際に実ちゃんが好きな人に向かっていくところを見たのは、今日が初めてだったし。レアな体験だったかもって。
僕、実ちゃんみたいに誰かを好きになったことがないから、この年になっても、恋愛がどういうものなのか、正直分からないんだよね。
したいなって気持ちはあるんだけど、相手もいないし恋愛をするっていう感覚も分からないしで……全然ダメダメでさ。
だから、僕のすぐ傍で一生懸命恋愛してる実ちゃんの存在は、色んなことを教えてくれてるんだなって、今日改めて思ったんだ。
そう言う人って、なかなかいないし。大切だと思うんだよね。
はむ、とあんまんを頬張る。
実ちゃんを泣かせた餡子の甘みは、僕にはとっても美味しく感じられた。
でも、恋をする実ちゃんが僕にとって大切、っていうのは本当だよ。
昔からさ、実ちゃんは僕より先に色んなことができたし、色んなことを経験してたでしょ。
そういうキラキラした実ちゃんの姿を見てるとさ、僕も頑張れるんだ。
くしゃくしゃに顔を歪めた実ちゃんの目尻から、また涙が溢れ出す。
僕はそんな実ちゃんににっこり笑って、その肩をとんとん、と叩いた。
ふらり、と実ちゃんが1歩近づく。
昔からそうだった。
悲しくなると、実ちゃんは僕に抱きついて泣き続ける。
中学生までは、何とも思わなかった習慣。
でも、例の動悸が起こるようになった高校生の時は、僕にとってちょっぴり苦手な展開になってしまった。
まあ、それでも頑張って受け止めてたんだよね。
ばくばくする自分の胸の音を聞きながら、早く実ちゃん泣き止むことを祈ってた。
今も、実ちゃんが近づく度に音がうるさくなるし、体に力が入ってしまう。
でも、久しぶりだし、今日は頑張って僕の方から抱きしめてあげよう。
そう思って、僕は両腕をゆっくり広げてみせた。
――よりによって、自分から受け入れる体勢を作ったこと。
それが後の事態を引き起こす要因になったかもしれない、と数時間後の僕は思う。
僕の唇に触れたのは、しょっぱいチーズと甘いミートソースの香り。
背中に回ると思っていた実ちゃんの手は、僕の肩をぎゅっと掴んでいる。その力強さは、恋人のフリで手を繋いだ時を思わせた。
目の前には瞼を閉じた実ちゃんの顔。
こんな至近距離で実ちゃんの顔を見るなんて、生まれて初めてだった。
どしん、と派手な音がしたかと思うと、臀部にじんじん、と嫌な痛みが広がる。
目の前でしゃがんだ実ちゃんが僕を必死に揺さぶるけど、声が全然出ない。
それどころか、目の前がすーっと霞んでいく。