4-3 カミングアウト!
文字数 5,184文字
沈黙を破ったのは、碧人さんのあからさまに苛立ちを含んだ呟きだった。
そ、それはこっちの台詞なんですけど……と言いたい気持ちを飲み込み、僕はおずおずと尋ねた。
吐き捨てるように言うと、瞳さんが僕の左脇へ向かった。
すれ違い様、僕は瞳さんの白い左頬に走る新しい赤みを見てしまった。
もしかして、トイレに入る前に聞こえた、あの音って。
そのままトイレから出て行こうとした瞳さんの左腕を、碧人さんが両手でがっちりと掴んだ。
瞳さんの顔が憎々しげに歪み、右手に作った拳を碧人さんに向けた。
それでも碧人さんは怯むことなく、むしろ「来い」と言わんばかりにぐっと瞳さんに向かって顔を寄せてしまう。
咄嗟に出た僕の叫びは、瞳さんの拳を碧人さんに振り下ろすことを阻止できた。
でもその代わり、殺気立った2人の視線を一気にこっちに集めることになってしまい、僕はたまらずひっと声を上げてしまった。
呼び止めてしまった以上、何も言わない訳にはいかないから……。
「は?」という2人の声がとてつもなく冷たくて、提案しといて早々、逃げ出したくなった。
5分後。
僕はすやすやと安らかな寝息を立てている渡辺くん……の真横のテーブルで、おしぼりを頬に当てた瞳さん、碧人さんと共に席に着いていた。
ちなみに、僕の正面に瞳さんが座っていて、碧人さんはその隣……ではなく、僕の右隣を陣取った。
あんなに瞳さんにベタベタしてたのが嘘みたいだ。今も、瞳さんを睨み殺しそうな勢いだし。
2人の、ある意味息ぴったりなアイコンタクトに脱力しつつ、僕はこほん、と咳払いをした。
暗に呆れを込めて、僕は棒読みで切り出してみた。
すると、遅いよと言わんばかりに、碧人さんがため息を吐いて口を開く。
「『ハル』――もとい、実ちゃんが事務所との契約を打ち切られる」
ようやくその言葉を理解した僕が叫ぶと、第2ラウンドに突入しかけた2人がぴたり、と止まった。
一瞬驚いた顔をした2人だったけど、やがて同時にはあ、とため息を吐いた。
そう、と頷く碧人さんに合わせて、瞳さんが淡々とした声で答えた。
ホッとしながら僕がそう告げた瞬間、瞳さんが鋭く僕を睨んだ。
え、な、何でそんなに睨まれるの? 何かまずいこと言った?
更に言うと、ハルが事務所に契約解除を勧告されたのは初めてじゃないんだ。
僕が事務所入りして間もない頃……去年の冬にも、同じ話があった。
その時はハルが「まだ頑張りたいから」って言って、保留になったらしい。
そうだよね、瞳。
碧人さんが瞳さんに視線を向けると、ちっ、と苦々しい舌打ちが返って来た。
事務所も、ハルがまたモデルとして多くの仕事を獲得したなら、契約解除の話をなかったことにしたかもしれない。
でも、結局、ハルは仕事を獲得できなかった。
モデルとしての仕事はほとんどもらえなくて、それでも、事務所から追い出されたくなくて、撮影のアシスタントや事務作業っていう裏方の仕事ばかりしていたんだ。
この前なんて、後もう少しってところで大きな雑誌の仕事を取れそうだったのに、事務所がスカウトしてきた新人にあっさり取られて、意気消沈してたもんね。
詳しくは言えねーんだけど、久しぶりに雑誌に大きく載る仕事、取れそうなんだ。
以前、実ちゃんが報告してくれたあの仕事のこと、だよね。
もちろん、実ちゃんの口から仕事がなくなったなんて聞いてない。
『解雇』という不穏なワードに冷や汗を掻く僕の隣で、碧人さんは顔色を変えずにそうだね、と頷いた。
僕は別に解雇されてもいいよ、瞳やハルみたいにこの仕事に執着なんかないし。
それに、さっきも言ったけどこの人は部外者じゃないよ。瞳とハルのすったもんだに巻き込まれた被害者の1人なんだから、君たちの事情を知る権利は十分あると思う。
身に覚えのあるフレーズに、僕の心臓が一段とうるさくなる。
そのフレーズに、瞳さんも目を大きく見開いた。何か言いたげにその形の良い唇が動く。
が、それよりも早く、碧人さんが次の言葉を告げていた。
僕は思わず両手で口を塞いでいた。
だって、そうでもしないと、思い切り叫んでしまいそうだったから。
必要あるよ。さっきの話と繋がってるし。
瞳は半端者になっていくハルがやる気を失って、事務所からも見放されるのを阻止するために、敢えて彼を突き放すような行動に出た。
ハルが心の拠り所にしていた恋人関係を解消することで、もう1度、モデルとしての彼を復活させようと試みたんだ。
そう。
大きなショックを与えでもしないと、ハルは本当にモデルを辞めてしまいそうだった。
瞳はモデルとしてのハルを大切に思っていたから、恋人としてのハルを切り捨てることで、それを守ろうとしたんだよ。
ただ別れ話を切り出したところで、ハルが了承する訳がないし、縋り付いてくるのは予想できた。
だから酷いやり方で振って、ハルの負けん気を煽ったんだ。
俺を裏切った瞳を見返してやるって、単純なハルが考えるのを期待してね。
ほんと、不器用な作戦だよね。他にやりようあったでしょって感じ。
でも、と碧人さんが僕の方を指差す。
ハルは君という新しい恋人の存在を持ち出してきた。とはいえ、すぐに君が恋人っていうのは嘘だって僕も瞳も分かったし、大した影響はないだろうと思ってた。
でも、そんなことはなかった。君はハルにとって重要な――。
だん、とテーブルが大きく揺れた。瞳さんが思い切り拳でテーブルを叩いたためだ。
怒ったのかと思ったけど、瞳さんの顔を見て僕はその考えをすぐに打ち消した。瞳さんは眉を寄せ、綺麗なシナモン色の目を苦しげに歪ませていたのだ。
いつも強気に笑っていたり怒っていたり、天使のような微笑みを零していた彼のそんな表情を見るのは初めてで、僕は思わず息を呑んだ。
苦しげに言葉を吐いた瞳さんに、碧人さんはぷい、と顔を背けた。
一瞬だけ見えた碧人さんの顔びは、やっぱり彼らしからぬ悲しげな表情が浮かんでいた。
僕の言葉に、瞳さんは何も答えなかった。
否定しないってことは、本当なのか。
そう理解した途端、僕は喉の奥が締め付けられたみたいに苦しくなって、それ以上何も言えなかった。
……もう、いいでしょ? 僕との関係はおしまい。嘘だったってバラしたんだから。
瞳のこと、僕は元々好きじゃなかったし。
瞳は、本当に好きな相手の手を取りなよ。
碧人さんの言葉には、きっぱりと瞳さんがそう言い切った。
すると、碧人さんが短く笑った。相変わらず顔は瞳さんにも、僕にも向けられないまま。
何それ。この期に及んでまだそんな嘘を……。
ぎゅうぎゅう、と苦しい喉の奥。その苦しさを堪えつつ僕が尋ねると、瞳さんが嘲笑した。
好き、なんて生温い感情じゃない。俺は、生半可な気持ちであいつを見ていた訳じゃない。
だからこそ、俺の思いはあいつをダメにしてしまう。
『ハル』としての輝きを……俺が何よりも愛おしいものを、俺の身勝手な思いなんかで潰したくないんだ。
胸の奥をずとん、と拳銃で打ち抜かれたみたいに、瞳さんの言葉が響いた。
じんじん、と熱を帯びている僕の耳元で、過去に聞いた言葉が囁いてくる。
私が恋人に求めることは、共にいることでも、愛を囁き、与えてくれることでもない。
輝き続けること。ただ、その1点のみです。
例え、その輝きが他人からすればちっぽけなもので、多くの輝きの下に埋もれてしまっていたとしても……私の目に映るその人が輝いているならば、それでいいんです。
その限り、私はいつまでもその人に恋をしていると思います。
僕の中で、過去の瞳さんの言葉が駆け巡る。
言葉だけじゃない、その時々の表情とか、声音とか。様々なものを伴って生々しく蘇った。
瞳さんが恋愛観のインタビューで語ったあの時、彼の脳裏には実ちゃんがいたんだ、とか。実ちゃんを振った時、本当は震えるくらい悲しみに満ちていたんじゃないかとか。
そう思うと、胸が潰れそうなくらい苦しい。
その時、碧人さんが勢いよく立ち上がった。
瞳さんをまっすぐ見据えるその顔に浮かんでいたのは、悲しみとも怒りとも取れる複雑なもので。
碧人さんの言葉を肯定した瞳さんが、弱々しく微笑む。
今までで1番優しく、そして悲しい微笑みだった。
そう言い放った碧人さんの目からも、怒りが消え失せ、悲しみだけが揺れているように僕には見えた。