3-5 誕生日前日
文字数 4,899文字
誕生日前日。
実ちゃんのそんなメールで、僕は起こされた。
電話できない、と言いつつも、僕のことを起こすという役割はちゃんと果たしたかったようだ。
メールが送られてきたのは、いつもの起床時間より30分も早かったし、謝罪メッセージの前には、絵文字で作った「おきろ!!」の文字がきらきらと輝いていた。
正直なところ、モーニングコールがないのは寂しい。
でも、今日を乗り切ったら、明日はデート。
そう思ったら、そんな寂しさなんて些細なものに感じてくる。
そう打ち込んで、送信。
あと、スマホのディスプレイにそっと口付けるのも忘れない。
お母さんに見られてしまうハプニング(一応弁解はしたけど、お母さんは視線を合わせてくれなかったし、横で聞いていたおばあちゃんは「小晴ちゃんったら、ウフフ」と嬉しそうに笑っていた)はあったけど、何だかんだであれから、電話越しにキスするのが、すっかり癖になってしまった。
恥ずかしさがない訳じゃないけど、やらないと落ち着かないんだよね。
『サミダレエンターテイメント編集部
『月刊さみだれモード』担当 魚谷様
僕のことは探さないで下さい。今までお世話になりました』
例の担当ライターから、その簡潔なメールを受け取ったのは、編集部で僕が「おはようございます」メールを送ってから、2時間後のことだった。
いつもなら長文メールを送ってくる人なのに、今日はこれだけ。
しかも、この内容は……見ているだけで寒気がする。
とりあえず、連絡を取ろう。事情を聞かないと。
そう思って彼の携帯電話に掛けたけれど、繋がらない。
電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないという無機質なアナウンスに、僕はぞぞぞ、と背筋が凍るのを感じた。
渡辺くんの声が遠くの方で聞こえた気がしたけど、僕に振り返る余裕はなかった。
君のことだ、僕が「戻って来なさい」って連絡しなかったら、今も探し続けていたかもしれないね。
ここは編集部の会議室。
身を縮こまらせた僕の目の前には、キーボードを淀みなく操作する編集長がいる。
ちなみに、僕と編集長の他には誰もいない。
副編集長や渡辺くんを初めとする同僚たちに「僕と魚谷くんの二人で話すから」と編集長が告げ、緊急以外での立ち入りを禁止したからだ。
会議室に入ってから、僕は一度も編集長と視線を合わせられていない。
それは僕が避けているからじゃなく、編集長がずっと持ち込んだノートパソコンのディスプレイから目を離さないためだった。
僕の心臓と同じリズムを刻む、キーボードの音。
キーボードの音が唐突に止んだかと思うと、編集長が体ごとこちらを向いた。
考えうる場所は全て探した……とまでは言いきれない。
でも、〆切が迫っている状況の中、闇雲に彼を探し続けるのは時間の無駄だ。
仮に見つけられたとしても、原稿が未完成なら意味がない。一度逃亡した彼に「またお願いします」と言える程、僕だって馬鹿じゃないから。
編集長の声音は穏やかで、僕が幼い頃からよく聞いているものと何ら変わりはない。
だけど、僕の心臓の音は落ち着きを取り戻すどころか、更に加速する。
取材資料はありますし、記事の構成もできています。この企画に関する彼の考えも、頭に入ってます。
直前で、最悪の形で仕事を放棄した彼を擁護する、という訳ではないですが、それでも、僕はこの記事を多くの人に読んで欲しい。期待に、応えたいと思っています。
……言っておくけれど、現時点で彼の名前を掲載するつもりはない。
でも、先月号の予告で彼の名前を出してしまっている。
あれでも有名なライターだからね、読者が期待しているのは彼が書いた記事だ。
君が書き上げた記事は、どういう経緯があれ、君のものと見なされる。
その時点で、読者の期待を裏切ることになるんだ。
ぱたん、と編集長がノートパソコンを閉じる。
その音は会議室の中で、やけに大きく響いた。
資料もあるし、積み重ねて来た打ち合わせの記録もある。
だから僕は、ここまで積み上げてきたものを、読者に届けられるよう整えればいい。
言葉にするのは、いつだって簡単だ。でも、行動するとなると、そう簡単にはいかない。
キーボードを叩いては止め、叩いては止め、という作業を繰り返して数時間。
原稿は仕上がらない。書き上げるだけなら、一度だけできたけれど、あまりのお粗末さに編集長の元へ持って行くこともできなかった。
結局、1から書き直しているのだけれど、書けば書く程、迷いが生じて手が止まってしまう。
はっとして自分の右手首を見ると、魚のチャームの、小さな目と視線が合った。
パソコンのディスプレイに映る『11時50分』を見た途端、スマホが振動を始めた。
スマホのディスプレイに、『着信』の文字と一緒に実ちゃんの名前が浮かび上がる。
それを見て、僕はハッと思い出した。
ずっと楽しみにしていた誕生日デートの存在に。
明日の朝には、この原稿を入稿しなくちゃいけない。
でも、それで全部終わりかといえば、そうじゃない。すぐに、この原稿を書くために放置している仕事に着手しないと、そちらも間に合わなくなってしまう。
一生懸命やれば、ギリギリデートには行けるかもしれない。
でも、今の僕にそんな余裕も、自信もなかった。
何より、こんな不甲斐ない僕を実ちゃんに見られたくなかったんだ。
明日のデート、行けないって伝えよう。
折角準備してくれたのにごめんって、言わないと。
葛藤している間に、スマホは振動を止めた。ディスプレイに浮かんだ『不在』の文字が、やけに冷たく感じてしまった。
僕は何とかメールを打ち、送信ボタンを震える指でタップした。
と、真横からことん、と小さな音がした。はっとして振り向くと、僕の魚模様のマグカップから柔らかな湯気が立ち上っていた。
その湯気の向こうから僕を見ていたのは、渡辺くんだった。
その横顔に覇気はない。僕同様、あまり状況はよくないようだ。
ふと気がつくと、僕は暗闇の中でしゃがみ込んでいた。
きょろきょろ見渡すも、何も見えない。
いつの間にか右手に握っていたスマホの光のお陰で、ここが僕の部屋のベランダだということが分かったけど、お隣さん家の明かりはなく、空も曇っているのか、星も月も見えなかった。
スマホに視線を寄せると、実ちゃんの名前と電話番号が表示されていた。
実ちゃんに電話しようと思っていたのかな。
『恋人』同士になってから、毎晩のようにしてるもんね。
僕はそっと画面をタップして、耳に当てる。
コール音は鳴るけれど、実ちゃんが出ない。
いつもなら、遅くても3コール目で出てくれるのに。
右耳に流れ続けるコール音。
何の感情もない、ただの音のはずなのに、聞いているだけで心の中も真っ暗になっていく。
耳からじわじわと冷たいものに侵されているような感覚がして、僕はたまらず口を開いた。
でも、返ってくるのは、コール音だけ。
その間も、僕の全身に氷のような冷たさが染み渡っていく。
ぽん、と右肩に大きな手のひらの感触。
その瞬間、目の前が突然真っ白に塗りつぶされた。
その眩しさに瞬きを繰り返していると、右肩の温もりが再びぽん、と音を立てた。
背後に立っていた日和さん、もとい、編集長の姿に僕はようやく我に返った。
蛍光灯の眩しさに苦戦しながら辺りを見回すと、僕と日和さん以外には誰もいない。
僕のパソコンのディスプレイには、午前2時と表示されていた。
記事は、未完成のままだ。
副編集長と話し合って、決めさせてもらったよ。
該当記事の掲載取りやめについて、謝罪文は既に作成した。同様の内容を、編集部のホームページやSNSに出すよう準備も整えてある。後日、改めて君とは今回の件について話をするつもりだから、そのつもりでいて。
僕は、君が不真面目だったとは思わないし、あのライターとのやり取りに不備があったとも思っていない。
むしろ、こだわりの強い彼に根気づよく付き合っていたし、何より彼への信頼、読者の期待に応えたい思いは、傍から見ていた僕でもよく分かる程だったよ。
どちらも、この仕事に携わるものとして、必要不可欠なものだと僕は思う。
でもね、君はその一生懸命さに全神経を集中させすぎていて、物事を客観的に見きれない傾向にあるようにも思うんだ。
それは、今後この仕事をやっていく上で、また別の形で君の足を引っ張る可能性がある。
それが僕は心配でならないよ。
編集長はとん、と僕の肩を叩いて、デスクにことん、とマグカップを置いた。
それは僕のマグカップで、中にはほうじ茶が注がれていた。
そのまま立ち去って行く編集長の足音を聞きながら、僕はパソコンの画面を見つめることしかできなかった。