3-5 誕生日前日

文字数 4,899文字

『ごめん。余裕ないから、今日のモーニングコールはナシ。また今夜な』

 誕生日前日。

 実ちゃんのそんなメールで、僕は起こされた。


 電話できない、と言いつつも、僕のことを起こすという役割はちゃんと果たしたかったようだ。

 メールが送られてきたのは、いつもの起床時間より30分も早かったし、謝罪メッセージの前には、絵文字で作ったおきろ!!」の文字がきらきらと輝いていた。


 正直なところ、モーニングコールがないのは寂しい。

 でも、今日を乗り切ったら、明日はデート。

 そう思ったら、そんな寂しさなんて些細なものに感じてくる。

『今日も起こしてくれてありがとう。行ってきます』

 そう打ち込んで、送信。

 あと、スマホのディスプレイにそっと口付けるのも忘れない。


 お母さんに見られてしまうハプニング(一応弁解はしたけど、お母さんは視線を合わせてくれなかったし、横で聞いていたおばあちゃんは「小晴ちゃんったら、ウフフ」と嬉しそうに笑っていた)はあったけど、何だかんだであれから、電話越しにキスするのが、すっかり癖になってしまった。

 恥ずかしさがない訳じゃないけど、やらないと落ち着かないんだよね。


(今日もミサンガを着けていこう。

これだけでも十分、デート気分を味わえるし、何より今日の仕事を乗り切れそうな気がするし!)

 僕はうきうきしながらミサンガを右手首に着けようとして、はた、と立ち止まった。
(そういえば、ミサンガって願掛けしながら着けるんだっけ。もう何度も着けてるから、今更だけど)

(願掛けかあ……原稿を無事入稿できますように? 

いや、それは確かに願ってはいるけれど、このミサンガに願うことじゃない気がする)

「楽しい誕生日デートになりますように」……うん、やっぱりこれかな)

 ミサンガの紐をきゅっと結び終え、僕は締まりのない頬を軽く叩いて気合いを入れた。








『サミダレエンターテイメント編集部 

『月刊さみだれモード』担当 魚谷様

僕のことは探さないで下さい。今までお世話になりました』




 例の担当ライターから、その簡潔なメールを受け取ったのは、編集部で僕が「おはようございます」メールを送ってから、2時間後のことだった。

 いつもなら長文メールを送ってくる人なのに、今日はこれだけ。


 しかも、この内容は……見ているだけで寒気がする。

 とりあえず、連絡を取ろう。事情を聞かないと。


 そう思って彼の携帯電話に掛けたけれど、繋がらない。

 電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないという無機質なアナウンスに、僕はぞぞぞ、と背筋が凍るのを感じた。


そんな……。
魚谷、どうした?
 僕はぶるぶる震える手でスマホを握りしめ、勢い良く立ち上がった。
僕、ちょっとライターさんと会ってくる。
お、おう? 

だ、大丈夫かお前、何か顔色が……って、魚谷!!

 渡辺くんの声が遠くの方で聞こえた気がしたけど、僕に振り返る余裕はなかった。








 ――で、それから数時間、君は電話を掛け続けながら、本人の自宅や関係する場所を探した。でも、当人は見つからない。

 君のことだ、僕が「戻って来なさい」って連絡しなかったら、今も探し続けていたかもしれないね。

……はい。

 ここは編集部の会議室。


 身を縮こまらせた僕の目の前には、キーボードを淀みなく操作する編集長がいる。

 ちなみに、僕と編集長の他には誰もいない。

 副編集長や渡辺くんを初めとする同僚たちに「僕と魚谷くんの二人で話すから」と編集長が告げ、緊急以外での立ち入りを禁止したからだ。


 会議室に入ってから、僕は一度も編集長と視線を合わせられていない。

 それは僕が避けているからじゃなく、編集長がずっと持ち込んだノートパソコンのディスプレイから目を離さないためだった。

正直、納得の行く説明を彼の口からしてもらいたいところだけれど、そんな悠長なことを言っている余裕はないね。明日の入稿は待ってくれない。

 僕の心臓と同じリズムを刻む、キーボードの音。

 キーボードの音が唐突に止んだかと思うと、編集長が体ごとこちらを向いた。


それで、魚谷くん。君はこれからどうするの?
そ、それは……。
もうじき夜になるけれど、君はこのまま彼を探す? 

それとも、違う方法でこの事態を収める?

……。

 考えうる場所は全て探した……とまでは言いきれない。

 でも、〆切が迫っている状況の中、闇雲に彼を探し続けるのは時間の無駄だ。

 仮に見つけられたとしても、原稿が未完成なら意味がない。一度逃亡した彼に「またお願いします」と言える程、僕だって馬鹿じゃないから。

君の意見を聞かせてくれないか、魚谷くん。

 編集長の声音は穏やかで、僕が幼い頃からよく聞いているものと何ら変わりはない。

 だけど、僕の心臓の音は落ち着きを取り戻すどころか、更に加速する。


取材資料はありますし、記事の構成もできています。この企画に関する彼の考えも、頭に入ってます。

直前で、最悪の形で仕事を放棄した彼を擁護する、という訳ではないですが、それでも、僕はこの記事を多くの人に読んで欲しい。期待に、応えたいと思っています。

うん。
今回の記事は、僕が完成させます。

……言っておくけれど、現時点で彼の名前を掲載するつもりはない。

でも、先月号の予告で彼の名前を出してしまっている。

あれでも有名なライターだからね、読者が期待しているのは彼が書いた記事だ。

君が書き上げた記事は、どういう経緯があれ、君のものと見なされる。

その時点で、読者の期待を裏切ることになるんだ。

……っ。
それでも、君は記事を書くのかい?
……こんな事態になってしまったのは、企画を担当していた僕の責任です。

やらせて、下さい。

〆切を変更することはできない。それは分かってるよね。
はい。
そう……分かった。

 ぱたん、と編集長がノートパソコンを閉じる。

 その音は会議室の中で、やけに大きく響いた。






 資料もあるし、積み重ねて来た打ち合わせの記録もある。

 だから僕は、ここまで積み上げてきたものを、読者に届けられるよう整えればいい。


 言葉にするのは、いつだって簡単だ。でも、行動するとなると、そう簡単にはいかない。




 キーボードを叩いては止め、叩いては止め、という作業を繰り返して数時間。

 原稿は仕上がらない。書き上げるだけなら、一度だけできたけれど、あまりのお粗末さに編集長の元へ持って行くこともできなかった。

 結局、1から書き直しているのだけれど、書けば書く程、迷いが生じて手が止まってしまう。

ダメ、集中しなきゃ。

瞳さんのインタビュー記事だって、まだ脱稿してないんだから……)

 酸素不足の頭をガリガリ掻いていると、ちゃりちゃり、と小さな金属音がした。

 はっとして自分の右手首を見ると、魚のチャームの、小さな目と視線が合った。

(今、何時?)

 パソコンのディスプレイに映る『11時50分』を見た途端、スマホが振動を始めた。

 スマホのディスプレイに、『着信』の文字と一緒に実ちゃんの名前が浮かび上がる。


 それを見て、僕はハッと思い出した。

 ずっと楽しみにしていた誕生日デートの存在に。

(……実ちゃん)

 明日の朝には、この原稿を入稿しなくちゃいけない。

 でも、それで全部終わりかといえば、そうじゃない。すぐに、この原稿を書くために放置している仕事に着手しないと、そちらも間に合わなくなってしまう。



 一生懸命やれば、ギリギリデートには行けるかもしれない。

 でも、今の僕にそんな余裕も、自信もなかった。

 何より、こんな不甲斐ない僕を実ちゃんに見られたくなかったんだ。



 明日のデート、行けないって伝えよう。

 折角準備してくれたのにごめんって、言わないと。


 葛藤している間に、スマホは振動を止めた。ディスプレイに浮かんだ『不在』の文字が、やけに冷たく感じてしまった。

 僕は何とかメールを打ち、送信ボタンを震える指でタップした。

(……最低だ、僕……。読者の期待だけじゃなくて、実ちゃんのことも裏切って……)

 と、真横からことん、と小さな音がした。はっとして振り向くと、僕の魚模様のマグカップから柔らかな湯気が立ち上っていた。

 その湯気の向こうから僕を見ていたのは、渡辺くんだった。

平気か?
……うん。ありがとう、渡辺くん。
無理すんなよ。
 そう告げると、渡辺くんは再び自分のパソコンと向き合った。

 その横顔に覇気はない。僕同様、あまり状況はよくないようだ。

(僕も、立ち止まってる場合じゃない)
僕は渡辺くんが淹れてくれたコーヒーを一口飲むと、キーボードに手を添えた。







……あれ?

 ふと気がつくと、僕は暗闇の中でしゃがみ込んでいた。

 きょろきょろ見渡すも、何も見えない。

 いつの間にか右手に握っていたスマホの光のお陰で、ここが僕の部屋のベランダだということが分かったけど、お隣さん家の明かりはなく、空も曇っているのか、星も月も見えなかった。


(僕は、何をしてたんだっけ)

 スマホに視線を寄せると、実ちゃんの名前と電話番号が表示されていた。


 実ちゃんに電話しようと思っていたのかな。

 『恋人』同士になってから、毎晩のようにしてるもんね。


 僕はそっと画面をタップして、耳に当てる。

(……?)

 コール音は鳴るけれど、実ちゃんが出ない。

  いつもなら、遅くても3コール目で出てくれるのに。


(仕事、かな。でも、それなら留守電になるはずだし……)

 右耳に流れ続けるコール音。

 何の感情もない、ただの音のはずなのに、聞いているだけで心の中も真っ暗になっていく。

 耳からじわじわと冷たいものに侵されているような感覚がして、僕はたまらず口を開いた。


実ちゃん、出てよ。お願い。

 でも、返ってくるのは、コール音だけ。

 その間も、僕の全身に氷のような冷たさが染み渡っていく。


実ちゃん……!
小晴。
っ……!

 ぽん、と右肩に大きな手のひらの感触。

 その瞬間、目の前が突然真っ白に塗りつぶされた。

 その眩しさに瞬きを繰り返していると、右肩の温もりが再びぽん、と音を立てた。


目、覚めた? 魚谷くん。

日和さん……。

あっ?!

 背後に立っていた日和さん、もとい、編集長の姿に僕はようやく我に返った。

 蛍光灯の眩しさに苦戦しながら辺りを見回すと、僕と日和さん以外には誰もいない。

 僕のパソコンのディスプレイには、午前2時と表示されていた。

 記事は、未完成のままだ。


(一体、どれくらい眠ってたんだろう……)
魚谷くん。
っす、すみません! すぐに作業に戻り……。
いや、一度仮眠しなさい。

起きたら、如月瞳のインタビュー記事に取り組むこと。いいね?

えっ。
君が書いていたその記事は、掲載しないことに決めたんだ。
……っそ、そんな……。
これは決定事項だよ。君がこれ以上頑張っても、意味がないんだ。
意味が、ない……。

副編集長と話し合って、決めさせてもらったよ。

該当記事の掲載取りやめについて、謝罪文は既に作成した。同様の内容を、編集部のホームページやSNSに出すよう準備も整えてある。

後日、改めて君とは今回の件について話をするつもりだから、そのつもりでいて。

 何も言えないでいる僕に、編集長はふぅ、とため息を吐いた。

僕は、君が不真面目だったとは思わないし、あのライターとのやり取りに不備があったとも思っていない。

むしろ、こだわりの強い彼に根気づよく付き合っていたし、何より彼への信頼、読者の期待に応えたい思いは、傍から見ていた僕でもよく分かる程だったよ。

どちらも、この仕事に携わるものとして、必要不可欠なものだと僕は思う。

でもね、君はその一生懸命さに全神経を集中させすぎていて、物事を客観的に見きれない傾向にあるようにも思うんだ。

それは、今後この仕事をやっていく上で、また別の形で君の足を引っ張る可能性がある。

それが僕は心配でならないよ。

……。

今は、それだけを伝えておくよ。とにかく、休みなさい。

お疲れさま。

 編集長はとん、と僕の肩を叩いて、デスクにことん、とマグカップを置いた。

 それは僕のマグカップで、中にはほうじ茶が注がれていた。

 そのまま立ち去って行く編集長の足音を聞きながら、僕はパソコンの画面を見つめることしかできなかった。


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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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