5-1 恋は意外と足元に落ちている

文字数 3,332文字

よしっ。

 今日は、スマホの目覚ましよりも、ご飯の催促に来るまぐろよりも早く目が覚めた。

 ベッドで微睡むことなくちゃっちゃとお弁当も作り終え、今はこうして鏡の前で身だしなみチェックを行う余裕すらあった。




 ほら、僕だってやればできるんじゃん。まぐろの力も、実ちゃんのモーニングコールもなくても、全然大丈夫だ。




 ネクタイの結び目を整え、リュックを背負ったところで、僕はようやく学習机横のポスターへ――実ちゃんへ視線を向けた。


っじゃあ、行ってくるね、実ちゃん!

 ポスターに挨拶しただけなのに、声が少しうわずっちゃったし、胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 でも、しょうがない。だって、人生初の失恋を経験したばかりなんだ、そう簡単に切り替えられないよ。

 だけど、僕はちゃんと従兄弟に戻るって宣言したんだ。

 だから、辛くても続けなくちゃ。

そう、思い続けていれば、きっと……大丈夫になるよね。

 その言葉で、ふとあることを思い出した。

 夕焼け色に染まった教室で、当時中学生だった実ちゃんが泣きながら僕にある告白をしたことだ。



『俺、あいつが好きなんだ。男同士だって分かってるし、思い続けてたってどうしようもないけど、気持ちが抑えられないんだ』



 そんな実ちゃんに、僕は『誰かを思う気持ちは無駄じゃない。思い続ければ何とかなる』って言ったんだ。

 同じだ、あの時と。

 前向きなこと言ってるつもりなのに、胸が苦しい。


……っよし、行こう! いってきま~す!

 記憶を追い払うように大声を上げると、僕は自室を飛び出した。

 にゃあ……とまぐろの寂しそうな鳴き声は聞かなかったことにして。





 午前11時前。

 編集部外での打ち合わせのため、少し早めの昼食を取りに僕は〈カフェうのはな〉を訪れていた。

 できれば、木谷くんに会いたいな、と思ってドアを開けたら、ちょうど彼の背中を見つけた。


木谷くんっ!

っ先輩?!

……っと。

 急に後ろから声を掛けたせいか、木谷くんがびっくりした顔で振り向いた。

 持っていたパンケーキが一瞬傾きかけたけど、上に乗せられたバターも落ちずに済んだ。

ご、ごめん。驚かせて。

い、いえ。

っていうか、来るの早くないですか、どうしたんです?

外で打ち合わせがあるから、早めの昼食を取りにきたんだ。

いつもの席、空いてるかな。

あ、はい。後で注文伺いに行きますね。

 爽やかな笑顔と共に木谷くんが足早に去って行く。それを見送った後、僕は隅のテーブル席に座った。

 時間はギリギリモーニング。テーブルにあったメニューも、モーニング専用になってる。

 よし、今日は折角だから小倉あんトーストとフレンチトースト、それにスープまで頼んじゃおう。コーヒーも1番大きなサイズにして。

 自分にしてはてきぱきとメニューを決定し終えると、ちょうど木谷くんがぱたぱたとこちらに駆け寄って来てくれた。






あのね、木谷くん。

僕、実ちゃんの恋人のフリ、止めたんだ。

元の、従兄弟の関係に戻りたいって、この前、本人にちゃんとそう伝えたよ。

 コーヒーのお代わりを淹れにやってきた木谷くんに、思い切って僕はそう打ち明けた。

 木谷くんはぴくり、と一瞬体を揺らしたけど、熱々のコーヒーを僕のカップに注ぎ終わると、

水野先輩は承諾したんですか?
うん。

……魚谷先輩、大丈夫ですか?

落ち込んだり、してませんか?

うん、深く考えなければ平気。

というか、大丈夫になっていかないとね。今のままじゃ、顔を合わせるのはもちろん、声を聞いたり写真を見たりするのもまだ少し……躊躇いがあるからさ。

無理はしちゃダメっすよ? 先輩、すぐに無理をするから。

あはは、そうだね……。

フリは止めても、気づいちゃった気持ちはそのまま残ってるし。

距離を置いている今でもどうすればいいのか分かんなくて、ずっとモヤモヤしちゃうし。

……元に戻るには時間が掛かりそうだよ。

でも、ずっと苦々しく思い続けていたくないな。次に会う時、気まずくなっちゃうのは嫌だもん。

前みたいに笑って話がしたいし、その時に意識もしていたくないし。

……気まずくならない自信、どうやったらできるかな……。

言ってる傍から、頑張りすぎてますよ、先輩。

あ、ごめん。

先輩、一旦、少しだけでもいいんで、水野先輩のことは忘れませんか?

か、考えていないつもり……。

見えないです。っていうか、俺に話した時点で、考えてるじゃないですか。

そ、それは……そうか。

……先輩、今回のことで恋愛のこと、少し分かるようになったって言ってましたよね。

そう、だね……。

それなら気分転換に、恋愛に関するものを見たり聞いたりするのはどうですか?

小説とか漫画とか映画とか……ジャンルは何でもいいんですけど。

恋愛に関するものを?

そうです。敢えて、恋愛に関するもので。

最初は水野先輩とのこと思い出して辛くなるかもしれないんで、思い切り笑えるコメディーがお勧めです。

それか、色気のあるシーンの多いものとか……俺の場合だと、グロいのが苦手なんで、そういうものが敢えて含まれるものを読んでみたりしましたよ。

に、苦手なのに読んじゃうの?

苦手でも何でもいいんです。落ち込む気持ちを吹き飛ばすインパクトがあるのが重要なんですよ。

そうすると不思議と、心の痛みが消えて行くような気がするんです。

少なくても、失恋した時の俺はそうだったんで。

木谷くん……失恋経験もあるんだ。

……俺の場合、失恋しては再燃して、また失恋して……って感じで普通じゃないんで、経験って呼べるものと言えるかどうかは分かんないですけどね。

とにかく先輩、今は水野先輩との関係を元通りにすることに集中するより、先輩が毎日楽しく過ごせることを優先させた方が良いです。

俺、先輩には笑っていて欲しいっていうか元気になって欲しいんです。先輩は、その方がずっとらしいですから。

木谷くん……。

 本当に、この後輩はどこまで優しいんだろう。

 一瞬だけ。本当に一瞬だけだけど、好きになったのが木谷くんだったら。今、この瞬間に告白しちゃうだろうなあって思う。

 ううん、そうじゃなくても。僕が次に好きになる人は、彼のような人がいいなあ、なんて、ちょっと贅沢がすぎるだろうか。


ありがとう、木谷くん。

君、本当に良い子だから……君の恋愛は報われて欲しいなって思うよ。

えっ。

いるって言ってたでしょ、好きな人。

あ……はい。

木谷くんなら大丈夫だよ。君みたいに誠実な人なら、どんな相手でも心を動かされると思うし。

……本当、ですか?

うん。もし僕がその相手だったら、これ以上ないくらいの幸せを感じると思うから。

 そう言いながら腕時計に視線を落とした僕は、「げげっ!」と叫んだ。

 電車に乗らなきゃいけない時間が迫ってる。

ごめん、もう行かなきゃ。ごちそうさまでしたっ! お会計お願いしますっ!

 ぐいっとコーヒーを飲み干すと、僕はそのまま木谷くんにお会計まで付き合ってもらった。

(いけない、ついつい話しすぎちゃった。単に報告するのと、今度お礼したいから食事しようって言うだけのつもりが……)

(って、誘うの忘れてた。仕事終わりにもう1回行ってみよう。

でも、いるかな。連絡先も交換してもらわないと……)

 そんなことを考えつつ、駅へ走って行く。

 と、不意に左腕をぐいっと強く引っ張られた。

っへ?!

 反射的に振り向くと、何とそこにいたのは木谷くんだった。


き、木谷くん?! 

どうしたの?! 何か忘れ物……。

っ俺、魚谷先輩のことが好きです!

……え?

恋愛感情的な意味での、好きです。

高校生の時から、ずっと先輩のことが好きでした。

ど……え……?

水野先輩のことが好きなのは、ずっと前から知ってます。だから、告白するつもりもなかった。

ただ、たまにカフェで話せるだけで十分だ、って自分に言い聞かせてました。

でも、やっぱりそれじゃダメなんです。

今すぐに、なんて言いません。どうしても、とも言いません。

……俺のこと、前向きに考えてもらえませんか?

木谷、く……。

っ……引き止めてすみません、それだけ言いたくて。

 じゃあ、と頭を下げ、木谷くんは足早にうのはなへ戻って行ってしまった。

 対する僕はというと、頭のてっぺんから爪先まで熱が迸るのを感じ、今起きた出来事を理解するのに精一杯だった。

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登場人物紹介

魚谷小晴(うおたに こはる)

駆け出しの雑誌編集者。23歳。

何事にも一生懸命で人当たりもいいが、時折恐ろしい程の鈍感っぷりを発揮することがある。(主に恋愛関係において)

恋愛経験ゼロ。ファッションセンスもゼロ。

多分、ノンケ。

従兄弟の実治にいつも振り回されていて、彼の「お願い」を拒めない。



水野実治(みずの さねはる)

小晴の従兄弟。小晴からは「実ちゃん」と呼ばれている。23歳。

「ハル」という芸名で、ファッションモデルとして活動中。

ゲイであり、現在、モデルの恋人がいるらしいのだが……?

負けず嫌いで、ややワガママなところがある。

日和 智(ひより さとし)

小晴の上司。47歳。

小晴の母親(作家)の元担当であり、小晴が編集者に憧れるきっかけを作った人物でもある。

物腰が柔らかく、口調も穏やか。が、仕事に対しては厳しく、笑いながら容赦ない言葉を吐くこともある。

木谷新二(きたに しんじ)

小晴の職場に隣接しているカフェ「うのはな」でアルバイトをしている大学生。21歳。

小晴の高校生の時の後輩。

誠実で生真面目だが、動揺すると顔や行動に出てしまう。恋愛経験が乏しく、それ絡みの話にはウブな反応をする。

如月瞳(きさらぎ ひとみ)

実治の恋人。実治と同じ事務所に在籍するモデル。24歳。

ゲイ。タチ専門。

実治とは同じ時期にモデルデビューした経緯があり、ライバル兼友人としての付き合いが長い。最近はドラマや映画など、俳優としても活躍中。

実治曰く、性格は「すげー最悪」。

美樹碧人(みき あおと)

実治、瞳と同じ事務所に在籍する新人モデル。20歳。

仕事の時は笑顔を絶やさないが、普段は感情の起伏が乏しい。

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