3-6 おかえり
文字数 3,076文字
冷ややかな編集長の声に、僕の意識はパソコンの画面から現実へ引き戻された。
ちら、と編集長のデスクの方へ視線を寄せれば、新入社員の子がぺこぺこと頭を下げている。ちらりと見えたその横顔は、今にも泣き出しそうだ。
まるで、1年前の僕を見ているみたいで、ほんの少しだけ胸が痛い。
見ていても仕方ないと、僕が再びキーボードに添えた指を動かし始めた時、ぺしっ、と背中を軽く叩かれた。
笑顔で振り返ったつもりだったんだけど、それを目の当たりにした渡辺くんの表情は見る見る内に険しくなってしまった。
赤い目を楽しげに輝かせる渡辺くんに、僕は即座に首を横に振った。
一気に輝きを失った目を逸らし、気まずそうに頬を掻く渡辺くん。
僕はキーボードを叩く手を止めて、ぐっと唇の端に力を入れた。
自分では精一杯笑ったつもりだったんだけど、渡辺くんは更に気まずそうに背中を向けて、「昼飯、先に食ってくる」と足早に行ってしまった。
午後3時。僕は遅いお昼ご飯を食べに、〈うのはな〉を訪れた。
ランチタイムはとっくに終わってしまっているし、気分的にも甘いものを食べたかったから、ブラウニーとコーヒーのセットにした。とりあえず、お腹が膨れればそれで良かった。
ここのところ、〈うのはな〉に来ても、仕事ばかりしてたからかな。何もしないで、ただ待つだけって妙に落ち着かない。無意味に店内をきょろきょろと見回してしまう。
木谷くん、今日はお休みなのかな。いるなら、すぐに挨拶に来てくれるもんね。
改めて、この前のプレゼント選びのお礼を言わないとって思ってたんだけど。
「行けない」とメールを打ってから、僕は実ちゃんのことも、誕生日のデートの約束のこともすっかり忘れてた。
慌ててスマホを操作すると、2通、実ちゃんからのメールが入っていた。
最初に開いたのは、昨日の夜に届いたものだった。
このメールは、僕の「デートに行けない」メールに対する返信だろう。
ドタキャンはもちろんのこと、約束の時間に少しでも遅れると怒る実ちゃん。
なのに、怒らないどころか、こっちのことを気遣うなんて……らしくない。
もう1通は、今朝送られたもので、
デートのことなら気にすんな。仕事が片付いたら、ちゃんと休むこと! いいな?』
こっちのメールでも、僕のことを心配してくれてる。
かなり遅くなったけど、ちゃんと返信しておこう。
『心配かけてごめん。
山は越えたんだけど、まだやることがあって……今日も帰るのが遅くなりそうです。
今回のデートの埋め合わせは、ちゃんとするから。
こんな形でだけど、お誕生日おめでとう』
そう返信しようと思っていたんだけど、『心配』まで打ち込んだところで、僕の指はぴたり、と止まってしまった。
はあ、とため息を吐いた後、僕は打ち込んだ『心配』を削除し、新しく打ち直した。
『色々心配してくれてありがとう。デート、行けなくなっちゃってごめん。
それから、お誕生日、おめでとう。今度、ご馳走するね』
昨日の朝、浮かれ気分でこのミサンガを身に着けていたことが、もう随分と昔のことに感じる。
あの時、確かに楽しくてしょうがなかったはずなのに、その感覚が思い出せない。
結び目を解くと、僕の右手首にぴったりとくっついていたミサンガは力なくテーブルにぺしゃ、と落下した。
その音がひどく寂しくて、僕はきゅっと唇を噛んだ。
その後、何とかやりたいところまでやりきると、僕はいつもより少し早めに退社した。
と言っても、既に日は暮れて、帰り道は真っ暗だったけど。
あれから実ちゃんからの返信はなく、僕のスマホは静かにポケットに収まったままだ。
自宅の最寄り駅に着いて、僕が足を止めたのは小さな洋菓子屋さんの前。
ガラスケース中央を陣取っていたショートケーキから目を離せなくて、気がついたら買ってしまっていた。
買ったのは1ピースだけ。
でも、店員さんから手渡されたショートケーキ入りの箱を見たら、少しだけ誕生日っぽい感じがして、頬が緩んだ。
そんなことをぼんやり考えながら、僕はケーキの箱を片手に家までの道を歩いた。
遠くに見える僕の家のガラス戸が、ほんのりオレンジ色に光ってる。
そういえば、お母さんやおばあちゃんに連絡を入れてなかった。
お母さんは原稿の〆切が近いから、多分僕が帰って来なかったことにも気づいてないかも。
でも、おばあちゃんは夕食の支度をして待っていてくれたかもしれない。
ちゃんと謝らなきゃ。
僕を出迎えてくれたのは、明るくて元気一杯なおばあちゃんの声……あれ?
おばあちゃん、ちょっと背が伸びた?
っていうか、皺が全然ないし、髪色も明るい赤だし……。
って、ちょ、ちょっと待って。
目の前の光景を理解できない僕をよそに、おばあちゃん……じゃなくて、僕の従兄弟兼『恋人』がひらり、とフリルいっぱいの白いエプロンの裾を揺らして首を傾げた。
腰に手を当て、ずいっと顔を寄せてくる実ちゃん。
その至近距離に、僕は、ひええっ、とその場に尻餅をついてしまった。
ぺしょ、と何かが台無しになった音が遠くで聞こえたけど、気にしている余裕はなかった。
唖然とする僕の目の前で、実ちゃんはにしし、と笑った。
うわー……。明らかに、何かを企んでいるでしょ、その顔。