第56話 ホワイトナイトは心優しき正義の味方ではない

文字数 1,788文字

兄からアポイントを取ってもらって、日本繊維織物工業(日繊工)に最初に訪問したのは、三連休明けの10月半ば。見上げるような本社ビルの一階の受付でアポイントの確認をすると、相当高くまでエレベーターが上がった。僕一人で伺ったが、取締役の経営企画室長だけでなく、営業部門を統括する常務と二人で話を聞いてくれた。
大会社の経営構造は大きなピラミッドのようなもので、本来、一段一段登っていかなければならない。祖父から兄へと連なる信用力というヘリに乗って、一気にその九合目まで連れてきてもらったようなものだ。ただ、そこから上に行けばいくほど崖は切り立っている。
その日は、山下繊工の現状についての話が中心になった。交渉事であり、手のひらを大きく開いて見せることには経営上のリスクが伴う。特に今の段階では、まだ同業のライバル会社である。提携が失敗すれば企業秘密を広げただけに終わり、提携が整ったとしても、足元を見られ条件が悪くなれば買収されるのと変わりがない。紳士的に話しをしていたものの、開発中の新素材について話をした時は、二人の目がきらりと光った。

駆け引きをしたり、出し惜しみをする余裕はない。「何か裏がある、隠していることがある」と少しでも疑念を持たれれば話は続かない。こちらはできるだけ早く判断してほしいが相手にはその必要はない。この手の綱引きは、力が強いものが勝つのではなく、いつでも綱を離して勝負から降りることができるほうが強い。相手方の力が圧倒的に強く、かつ、こちらは蜘蛛の糸のように、その綱を頼りにせざるを得ないという状況においては、振り回されることになっても相手のペースで進めるより方法がない。
それを察してくれたのか、「当方としても、交渉を長引かせることに意味がありません。いただいたご提案を検討する時間として二週間ください」と時間を区切ってくれた。

二週間後、二度目の交渉は、副社長の洋さんと二人で出かけた。
エレベーターは、前よりも高くまで上がり、前回の2名に加え、専務や財務担当取締役、法務担当弁護士など、メンバーは6名に増えていた。この手の話はやる気がなければ人数が減り、一人になればそれは断りの話になる。それだけで、真摯に真剣に検討してくれたということがわかる。ファンドの影で買収をもくろんでいる企業の名前やその動きも、タケがつかんでくれたものと同じだった。
実務的な担当者が増えていることに、微かな期待を覚えたが、やはり結果は厳しいものだった。条件を検討する以前に、お金を出せないというのだ。

「山下繊工さんのアイデアや技術力ついては、私たちも高く評価していています。高機能繊維はまだ新しい分野であり、大きな成長を見込める分野でもあります。競争も激しくなっていますから、山下さんの技術力やノウハウが新興国の企業に渡ってしまうことは、私たちにとっても望ましいことではありません。お声掛けいただいて、非常にうれしく思っています。しかし、資金面での問題がどうしてもでてくるのです」
そう言ったところで、取締役の財務部長が話を引き継いだ。
「私たちも法務担当とも一緒に慎重に検討を重ねました。新株を発行いただくとしても、現在の株価で相手に対抗するだけの株式を取得するには、相応の資金が必要となります。またそれを長期的に保持しつづけなければなりません。またこの手のM&Aは、証券監視委員会も目を光らせています。今の株価が御社の企業価値よりも高いと言っているわけではありませんが、当社の株主に対する説明も必要となりますし、この短い間でそのメリットやリスクを判断することは容易ではありません。また、現在、御社の株を買い進めているファンドの動きもあります。短期間に双方が買い進めれば、株価はどんどん上がっていくでしょう。そうなれば、最終的にどのくらいの資金が必要になるのか、想定できないのです」
日繊工の視点から費用負担と提携の効果について、いくつかのシミュレーションを、複数のペーパーとスライドを使って丁寧に説明してくれた。忖度なく、誠意をもって真剣に検討してくれたことがわかる説明だった。短期的に動かせる資金は相手の方が数段上だ。大手企業といえども、ファンドとのマネーゲームに陥れば大きな傷がつく。
言っていることは至極ごもっとも。
沈みそうな私たちの船に一緒に乗れというのは無茶な話だ。

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