第16話 足利さんと天神さんのはなし

文字数 2,032文字

遅い朝ごはんを食べ終わり、キッチン前のテーブルで、肘をつきながら二杯目のコーヒーを飲んでいる。結衣は僕の知らない流行歌を口ずさみながら、片付けを始めている。
「今日はどこかに遊びに行きますか? 夜のご飯はどうしましょうか」
窓を開けると、絶好のお散歩日和。心地好い春の風が吹き、やわらかな陽射しが差し込んでくる。ただ、最近の京都はほぼ一年中、観光シーズンであり、土曜、日曜に外にでると人混みは避けられない。特に、結衣の住んでいる上七軒は、北野天満宮、竜安寺、妙心寺、仁和寺などの観光寺院を通り、嵯峨野、嵐山へ向かう京福電車の出発点になる。今は、遅咲きの御室桜がピークを迎えているため、その方面はすごい人だろう。
結衣と二人、散歩もしたいが、まったりもしていたい。
「今日は、一緒にご飯つくろか。夕食を早めて四時くらいに食べるいうのはどうやろ」
「賛成、賛成」
「はよう食べてしまわなあかんもんは、残ってる?」
「筍ご飯は小分けにパックして冷凍してありますし、あとはですね…」
そう言って、冷蔵庫を開ける。
「昨日の残りの浅葱と玉ねぎ、大葉、スプラウト、茗荷ってとこですかね」
「じゃあ、手巻き寿司にしよか。昨日もお魚やったけど、どやろ」
「お魚大好き、手巻き大好きです。うぁ~ 楽しみ、楽しみ」
「せっかくのええお天気やから、もうちょっとしたら、このあたりをぐるっと散歩しながら、お買い物に行こか」
「はぁ~い」
元気に答えると、あれこれ段取りを考え、買い忘れのないようメモを取っている。
「ご飯は、お昆布いれて三時半くらいに炊き上がるようにセットして、御酢は合わせで作れますし、胡瓜が一本浅漬けにしてあるし、あと卵は少し甘めの厚焼きにしましょうか。お魚は、お店に行ったときに選ぶとして、あとは海苔ですね」
千本中立売から一条通につながるアーケードは、北野商店街といって西陣の台所として栄えたところ。最近は大手スーパーに押されて店舗数も減ってきているが、それでも買い物をするにはとても便利な場所。二人でご飯をつくったり、食べたり、話しをしたり、普通のことがとても楽しい。テキパキ結衣に変身した彼女を眩しく見ていた。

お昼過ぎに、マンションをでて北上し北野天満宮へ。そのまま裏手に回って平野神社から西大路を渡る。立命館大学の近くを通ると、新入生のオリエンテーションが行われているのか、たくさんの荷物を抱えたあか抜ける前の一年生が通り過ぎていく。
「等持院さん、行ったことある?」
「まだないです。白梅町と竜安寺のあいだにあるお寺ですね」
等持院は立命館大学を下がったところ、それほど有名な観光寺院ではないが、室町時代の足利将軍の菩提寺として知られている。
「足利さんって、いまでも直系の方がおられるって知ってる?」
「へぇ。尊氏さんとか義満さんとかの子孫の方ですか? 太平記読みましたけど、世が世なら足元にも寄れませんね」
大きな呉服商を営んでいた祖父にそんな話を聞いたことがある。
室町幕府の初めに皇室が南北に分かれた「南北朝時代」というのがあるが、戦前の皇国史観では、南朝が正当な皇位とされている。その立場に立つと、足利尊氏は天皇を中心とした建武の新政に踏み出した後醍醐天皇を吉野に追いやり、北朝を擁立して天皇家を分団させた憎むべき人物ということになる。奈良時代の道教、平安時代の平将門とともに、天皇家に弓を引いた日本三悪人の一人として、その子孫も厳しい立場に置かれていたらしい。
「天皇家から、正式に足利家にお許しがでたんは、まだ最近のことらしいよ」
「京都って知らないだけで、お隣にすごい人が住まわれてるって感じですね」
「歴史は、誰から見るか、どこから見るかで、ちごてくるからな。天神さんかて、天災が起こった時に『道真公の祟りやぁ』って藤原さんがビビったから、こうして神様にならはったんやし。こんなん言うたら神社の人に叱られるけど、道真さんも、自分がこんな風に祀り上げられるなんて、思てもいはらへんかったやろ。神様言うても、西洋や中東の一神教の絶対的な神様とは根本的に成り立ちが違うからな」
「確かに、『天神さん』って、『田中さん佐藤さん』って隣近所の人を呼ぶときみたいに親しげですよね。キリスト教やイスラム教では、考えられないでしょうね」
「それでも今や全国に知られた学問の神様やし、神主の子供さんは、高校受験とか大学受験とかプレッシャーやろなぁ。そういういけずな噂、結構、京都人は好きやから」
「本当ですね。大変だ」
僕らの生きている現代も、時代の最先端ではなく、うねりながら進む流れの途中でしかない。その価値観も常識も信仰さえも絶対的なものではない。後世の人からはどんな時代だったと評価されるのだろうか。
白梅町から嵐山方面に向かう一両編成の小さな電車は、観光客でいっぱい。
「大きな流れには逆らえないけど、少しでも幸せな時間が長く続けばいいな」
電車が行き過ぎたあと、ポツリとそう言うと、手を伸ばしてそっとつないだ。
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