第19話 母は一度だけ僕に添い寝をせがんだ

文字数 1,150文字

父が亡くなった時、周囲が心配したのは、母のことだった。もともと心臓に慢性的な疾患を抱えていることも大きな不安要素だった。普段からおっとりした浮世離れした人で、泣きわめくとか、感情が不安定になるというふうではないが、しばらくは、何をしていても脱け殻のようで、心ここにあらずだった。
兄が、養子になると決めて、東京の大学に戻る時、京都に帰ってくるまで母さんのことを頼むと言われた。父にも言外に託されていたような気がする。
正直、頼むと言われても、特別なことができるわけではないけれど、兄がいなくなった日から、毎日、二階の自分の部屋から一階の両親の寝室である仏間に布団を運んで、母のとなりで眠ることにした。押し入れには父の布団が畳んで残されていたが、それは母と父が身体を重ね、愛を交わした二人の匂いと汗が残る大切なものであり、その上で眠るのははばかられた。母もそうしろとは言わなかった。
それから毎日、眠る前に母から父の話を聞いた。初めてデートした時の話、初めてキスをしたときの話、初めて抱かれたときの話、二人で旅行した時の話、父からのプロポーズ。母は息子にではなく、その頃の自分に語りかけるように赤裸々に話をして、そして泣いた。
「ケンカは、せぇへんかったん?」
「そやねぇ、たまに困らせとうて、私がいけず言うて拗ねとったなぁ」
「母さんは、他に御付き合いした人はいいひんかったん?」
「隆春さん(母は父をこう呼ぶ)一人だけ。そやかて、ずっと大きな鍵付きの桐箱入りやったし、おまけに中学校のときから、まわりは女の子だけやし」
結婚の時のまるよしの混乱、親戚から投げつけられた言葉、祖父への感謝と申し訳なさ、兄を身ごもった時の喜びと不安、兄や僕の命名談など、これまでの人生を辿るように思いつくことをたくさん話した。
ただ、二人が出会った日のことだけは、「それは、隆春さんと私の二人だけの秘密やし、ハルにも教えてあげん。でも、あんな不思議なことがホンマにあるんやなぁ」と言って、遥か遠くの景色を見るような顔をした。母は本当にきれいな人だった。

一度だけ、「ハル、そっちの布団に入れてもうてもエエ?」と添い寝をせがんだことがあった。「うっそぉ~」と抵抗したが勝手に入ってきた。「ハルは隆春さんの匂いがちょっとだけする」と足を絡ませ肩口に鼻をつけてスヤスヤと眠った。その日僕はほとんど眠れなかった。
少しずつ元気になって、四十九日を超える頃には、だいぶ落ち着いてきた。ただ、何となく、やめどきが見つからず、母の部屋で一緒に寝るという習慣は、大学を卒業し、東京にでるまで、また東京から帰ってきてからも続いた。母も「もうええよ」とは言わなかった。女性の右側でないと眠れないのは、恐らくその時の布団の位置関係に理由がある。
父は左利きだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み